——私が一日休めば、日本が一日遅れるのです。
とは、日本初の土木工学教授である古市公威の言葉だといいます。安政元年(1854年)姫路藩に生まれた古市は明治8年、フランスに留学しました。在仏5年間の勉強ぶりは驚嘆すべきもので、その勤勉さに下宿の女主人があきれて、
「公威、身体をこわしますよ」
と忠告すると、上のように答えたといいます。
いかにも明治初年の留学生らしく、まさに国の威信と命運を背負っての留学でした。
このような国家的事情のなかで青年期を迎えた明治人たちに、私は羨望を抱かずにはいられません。
また、私が小学1年生のときのことだったでしょうか。総合学習かなにかの授業でクラス内で班に分かれてサツマイモ掘りをしたことがあり、なにごとにつけても競争したがる小学生の体質で、すぐに「どの班が最も多く穫れるか」という競争が始まりました。はじめのうちはどの班も黙々とまじめに掘っていたのですが、しばらくすると他の班を妨害し始める人が出てきました。「おかしなことをするなあ」と思いながらも自分の班を必死に防衛したことをいまでもよく憶えています。
上の話は、この記事を書こうと思ったときに真っ先に出てきた記憶で、子供が集まればどこにでも起こりそうな話ながらも、我々日本人の共同体意識をよく表しているように思い、冒頭で字数を割きました。
日本人は一般的に、「公」というものを強く意識して生活しているように思います。
「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」
と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。
かれの理由は単純明快だった。
「中国人はリラックスしているからね。——」
私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
鎌倉武士が自分の一所(所領)に命を懸けたように、いまもたとえば一百貨店の社員は他の百貨店に対し、常時戦闘的な緊張感を感じている。自分の店内でも、自分の小さな売場を公として、他の売り場に対して競争をしている。(『この国のかたち』)
今回は、日本人の「公」への強い意識や帰属意識が歴史を通してどのように形成されてきたのかを見ていこうと思います。またそうした性質が顕現して起こる様々なメリット・デメリットにも触れていきたいと思っています。
日本人の共同体意識を詳しく解き明かすためには、室町の中期ごろに成立しはじめた「惣」という面倒なものを説明せねばなりません。
室町中期から後期というのは、戦乱の時代でありながら、農業生産が飛躍的に向上した時代でもありました。
鎌倉時代は武家の世とは言っても、農民の立場からしてみれば公家の世とさほど変わりませんでした。たとえば1つの村でも、一枚のピザを切り分けるようにして何人もの地頭が寄生しており、個々の農民からすれば、各々が隷属している地頭とのあいだのタテの被支配関係しか持てませんでした。
そのうち、鎌倉から室町の世にかけて鉄器が安くなり、鉄製農具をどういう貧農でも買えるようになり、農業生産が全国的に飛躍しました。それにより個々の農民が力を持つようになると、村が1ホールのピザとなって団結し、顔役を選んで地頭たちと交渉するようになりました。
この一村が一枚として結束したものが「惣(総)」と呼ばれました。
その顔役たちも成長し、国人・地侍といった非正規な武装者になって武装農民を率い、ときには村の利益を守るために支配層に楯突くこともありました。
戦国初期の軍事力の実態は、この惣の若衆が農閑期に腹巻を付け槍を握っている兵農一致の状態を想像せねば分かりづらいものがあります。
百姓たちは利益共同体である自分の惣に対して強烈な公意識を持ち、自分たちの田畑や居住地を病的なまでに神聖視し、惣のこどもや若衆はしばしば隣の惣とケンカをしました。また野盗の群れや守護の兵が押し寄せてくれば、板橋をはずし、木戸を閉じて柵をめぐらし、弓矢をとってこれを防ぎました。
この惣こそ日本人の共同体意識の原形と言ってよく、いまなお我々の意識の底に沈んでいるように思います。
冒頭のイモ掘りの例もデパートの例も、この「惣」の性質と非常によく似ているように思います。自分が属する共同体を神聖視し、かつ共同体のために緊張し、団結し、ときに他者への攻撃性をむき出しにするといった性質は、この「惣」が日本人に残したものであると言っていいでしょう。
戦国時代の幕を切って落としたのは、伊豆の大名・北条早雲であるといわれます。
北条早雲は以下の2つの点で極めて画期的でした。
1つは、日本史上初めて、民政に基軸を置いた領国統治を行ったこと。
もう1つは、武力による他領の切り取りを行ったことです。
早雲は伊豆一国を支配し、これを”領国化”した。
まことに独創的だった。
それまでの室町の守護・地頭が、行政なしの徴税のみの存在だったのに対し、領民の面倒のいっさいを見るという支配の仕方だった。そのかわり惣の自治をおさえ、惣の若衆を領国の戦力(侍・足軽)として吸いあげ、これを山野に駆って早雲は関八州を支配した。
ここに、伊豆人にとって北条氏とその領国が、公になった。惣の者にとって公が拡大されたのである。この北条氏を、他の戦国大名がまねたところから戦国が展開する。
(『この国のかたち』)
くどいですが、早雲は、重税をかけてくるだけの存在であった守護や地頭とは対照的に、政治の基礎に民政を据えた日本最初の政治家で、その領国では、
「四公六民」
という日本史上まれに見る低率な税制を布きました。越中の富樫氏などが八公二民という理不尽きわまりない税率を課したことなどを思えば、驚くべき低さであると言えます。それだけでなく、飢饉がおこればさらに税率を下げ、また上方の進んだ農業技術を奨励したりするなど、積極的に領民の世話を焼きました。
このため、惣を形成する百姓たちは、
「宗瑞さま(早雲)にもしものことがあっては、我らは立ちゆかぬ」
ということで早雲の身を大切に思っており、さらには早雲のために弓矢をとってもいいという気分がみなぎりもしました。先にも述べたように、この時代は兵農が分離しておらず戦力といっても農閑期の百姓に頼らざるを得なかったのですが、その戦力を早雲のために使いたいという気分が自然に起こってきました。百姓たちが自分の「惣」に感じてきた「公意識」は、早雲の治める領国全体に拡大されたのです。
公文書に印鑑を用い始めたのも早雲が最初と言われますが、早雲が印としたのは、
「禄寿応穏」
の四字でした。
「人民の禄(財産)と寿(生命)がまさに穏やかなるべし」
という意味で、早雲の領主としてのあり方が端的に顕れています。
「守護」などどいうのは、その国の大小の領主・田持ち —国人・地侍— からみれば、重税をかけてくるだけの存在として、本然的な敵であるといえる。
早雲の意識では、伊豆におけるそういう国人と連携して守護という共通の敵を追い出そうとしているだけのことで、守護の国を盗もうとするわけではない。守護自身が、稲の虫と同然、農民の敵なのである。(『箱根の坂』)
民の力を支えに、民の安寧のために戦う。
それこそが乱世の草莽より興った北条氏の思想で、息子の氏綱、孫の氏康によく受け継がれ、関東に一大勢力を築き上げました。
こうした早雲の領主としてのやり方を他の地域の領主が模範しはじめたところから戦国時代の幕が開けます。
たとえば北条家の領国である伊豆・相模の北隣、甲斐の国に生まれた武田晴信(信玄)などは、早雲の最も優秀な後輩であったと言っていいでしょう。
信玄の治めた甲斐の国(山梨)は山に囲まれた盆地で谷が多いために、しばしば洪水に悩まされました。このため小領主たちは堤防を築くために、長大な水流を一元的におさえる権力を必要としており、信玄もまたそのことをよく理解していました。信玄が築き、いまなお山梨県民の生活に役立っているという竜王堤(俗にいう信玄堤)は、彼の民政家としての一面をつよく覗かせています。こうした事業によって武田氏を甲斐国民にとっての公とし、民心をまとめ権力を確立することでかれは一大強国をつくり上げることができました。武田信玄の華々しい武名の裏には、鋭敏な政治感覚を備えた民政家としての顔があったのです。
戦国期に範囲の拡大された公の意識は江戸期の武士や町人たちに受け継がれました。
江戸中期の秋田藩士・栗田定之丞(さだのじょう)などはその典型といっていいでしょう。
かれの生まれた秋田の海岸沿いは、毎年冬から春にかけて日本海から吹きつける季節風による飛砂によって壊滅的な被害を受けてきました。数十キロにわたる海岸砂丘の砂はこの強風に巻き上げられ、田畑や住居をうずめました。余談ながら観光地として有名な鳥取砂丘も、この飛び砂によって砂浜が拡大されてできたものでした。
いやがられたが、定之丞はしつこく説いた。砂をとめて林にすれば薪にもなり、堆肥にも役立つ。なによりもいのちのたねの田畑が砂にうずめられずにすむ。頼む、といいつづけるのである。そのさまが、子供がおんぶしてくれとだだでもこねるようだったから、
「だだ之丞」
とよばれたりしたらしい。(『街道をゆく』)
何も見返りがなくとも公益のために尽くそうとする定之丞の姿をみて人々の意識も変わったのか、徐々にこの事業に協力しはじめました。かれの死後も人々の手によって植林は続けられ、江戸末期には数百万本の松原が秋田の長い海岸をまもるようになりました。
この一件を見ても、公益のために尽くすという思想が広く浸透していたことが見てとれます。
江戸期の武士のほとんどは貧しかった。
おのれの境涯に堪えることと、富むことを願わず、貧しさのなかに誇りを見出し、公に奉ずる気分がつよかった。そのことが、明治への最大の遺産になった。(『街道をゆく』)
やがて維新が起こると明治政府はこの「惣」を解体して中央集権的な市町村というものに変え、「惣」の諸制度は単に卑しく田舎じみたものと思わせるようにしました。また藩も廃止され、これも中央集権的な県という行政区分に置き換わりました。このとき、公は国家レベルまで広がりました。
維新によって日本人ははじめて近代的な『国家』というものをもった。たれもが、『国民』になった。不慣れながら『国民』になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。(『坂の上の雲』あとがき)
新国民たちのこの昂揚感に満ちた公意識を原動力に、日本は西洋列強の文化、学術、諸制度をおそるべきスピードで取り入れ、奇蹟的な文明開化を遂げました。
たとえば郵便制度は明治3年の前島密による建議からわずか4年後の明治6年にはすでに全国に拡大し、驚くべき速度で制度を確立しました。
その奇術のたねも、新国民たちの強い公意識にありました。
明治政府は、江戸時代には農村の顔役であった名主たちに自宅を郵便取扱所として開所する旨を要請し、これを全国1100箇所あまりの名主が快諾したことで郵便制度は一気に全国区に拡大しました。「新国家の役に立ちたい」という、自己を公に奉ずる思想が多分に共有されていたからこそ成し遂げられたことでした。
今からおもえばじつに滑稽なことに、米と絹のほかに主要産業を持たないこの国家の連中は、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。人口5千の村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。
が、そのようにしてともかくも近代国家をつくり上げようというのがもともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。”少年”どもは食うものも食わずに三十余年をすごしたが、はた目からみるこの悲惨さを、かれら”少年”たちはみずからの不幸としたかどうか。(『坂の上の雲』あとがき)
日本人のこの公意識はときにすさまじいエネルギーとなって歴史を押しすすめてきましたが、むろん負の形で現れることもあります。ヘイトスピーチに代表されるような差別的な言動や、対中国外交の世論などに見られる極端な排外的政治思想は、我々の公意識が悪性の腫瘍となって腫れ上がったものであると言っていいでしょう。
「惣」の公意識には、共同体の外への攻撃性や自分の「惣」を神聖視するような意識も多分に含まれていました。そうした攻撃性や神聖視の規模が惣から日本に拡大された結果が、たとえばヘイトスピーチであったり、昭和初期の狂気としか思えない国家的妄動の数々であったり、太平洋戦争時における「神国日本には神風が吹くから戦争に敗けない」といったような非現実的な錯覚であったりします。きわめて精緻な分析と計算に基いて日露戦争のきわどい勝利をもぎ取ったのと本当に同じ国民なのかと嘆きたくなりますが、日本人の「公意識」がこのような醜い形で発現してしまった歴史もあったということを、我々は心に留め置く必要があります。
要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。(『坂の上の雲』あとがき)
長くなりましたが、日本人のこうした歴史や性質を踏まえていま我々がすべきなのは、我々が「公」を意識する範囲を、日本から世界に拡大することでしょう。
日本の歴史は、「公」の範囲を徐々に拡大してきた歴史でもありました。
はじめは自分の「惣」だけに感じていた公意識は戦国期を通して自国や藩に拡大され、江戸期を通して熟成し、やがて明治になると新国民たちは国家に「公」を意識するようになりました。
交通や情報通信技術の発達により、世界はより狭く、相互依存的になりました。世界のどの国も、もはや自国だけでは経済も安全保障も成り立たず、環境問題や国際紛争など、世界が抱える諸問題は国どうしの協力なくして解決はあり得ません。
幕末の坂本龍馬や徳川慶喜、勝海舟などは、当時のほとんどの人の公意識が藩という範囲にとどまっていた中で、「日本人」としての公意識をもって行動していた数少ない人物でした。ゆえに先を見据えた現実的で広い視野を持ち、日本の近代化を先導することができました。
かれらは天下は天下のもので、徳川家の私物ではないという思想をもっていたからこそ、肩の荷物をおろすようなあっけなさで、一回の評定で大政奉還をしたのである。
(『この国のかたち』)
いまこそ我々は日本という狭い範囲での公意識を脱ぎ去って、「地球人」「世界人」としての公の思想を持ち、日本を含めた世界全体の福利のために行動すべきでしょう。司馬氏は、「今後、日本のありようによっては、世界に日本が存在してよかったとおもう時代がくるかもしれない」と述べました。日本がそのような国になり、この星の未来に貢献するための第一歩は、我々の公意識を「地球人」としてのそれに成長させることによって初めて踏み出すことができるものと私は信じています。
「英語教育を通してアンビシャスな人たちの夢を叶える力になりたい」という夢を実現するため、日本人に最適な語学教育のあり方を求め米国ボストンに留学。現在は日本に帰国し、語学教育事業に注力中。帰国後も執筆の機会を頂けたことに感謝しています。大阪大学4年生。