東洋に浮かぶ孤島の住人である我々が、その歴史上はじめて「鉄砲」という火器に接したのは、天文12年(1543年)の8月でした。
この国の不思議さは、この伝来間もない新兵器を完全に国産化し、戦術を独自に編み出し、歴史を加速させるべく十二分に活用してしまった点です。これには南蛮の宣教師たちも唖然としたことでしょう。
彼らバテレンは、大航海時代における列強の手段がいつもそうであったように、キリスト教を広めて民衆を教化し、人文地理を偵察し、植民地化の布石を敷く目的で派遣されました。目的どおりになった結果として、スペイン語圏・ポルトガル語圏となった現在のラテンアメリカがあります。
余談ながら、このすこし後に鹿児島に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルは、上陸後すぐに耶蘇会に報告書を送り、「非キリスト教国のうちいまだ日本人にまさる国民を見ない。行儀よく温良である。が、十四歳より双刀を帯び、侮辱、軽蔑に対しては一切容赦せぬ」と書き、また日本征服の野望のあったスペイン王に忠告し、「かれらはどんな強大な艦隊でも辟易しない。スペイン人を皆殺しにせねばやめないだろう」と書き送っています。
後に豊臣秀吉や徳川家康が、キリスト教の侵略の尖兵的な側面に気づき、バテレンを追放しこれを禁教としました。
話が逸れました。
日本人は彼らの武器であった火縄銃をまたたく間に国産化してしまいました。自分たちの武器であったはずのものを気づけば日本人がみな持っていたというのは、狐につままれたような思いであったでしょう。列強が植民地化を断念したのは無理もありません。このときの「ネジの解明」の話はよく知られています。
種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲がもたらされると、島主の種子島時暁は刀鍛冶の八板金兵衛にその模造を命じました。
この当時の刀鍛冶たちは、火縄銃の銃身、つまり筒の部分は容易につくれたようでしたが、問題となったのは後端部、筒の底をふさぐ技術でした。
これにはネジの原理が用いられていたのですが、この当時の日本にはネジという概念自体が存在しなかったため、ここで金兵衛は行き詰まったのです。
一説には金兵衛は自分の娘を南蛮人に嫁がせてネジの秘密を聞き出したとも言われ、好奇心を通り越してその執念のほどが伺えます。
(出典:http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/archives/5640)
八板金兵衛によって解明されたこの新兵器は紀州根来や堺、近江の国友などで量産され、時代の要請もあって急速に全国に普及しました。やがて織田信長という天才を得て戦争のありようを一変させるに至り、乱世の終結を早めました。
この日本人と火縄銃の邂逅は、我々の「異文化への好奇心と柔軟性」をよく象徴しているように思い、字数を割いて紹介しました。
この「好奇心」と「柔軟性」は、島国という環境のなかで日本史を通して熟成され、ある時期に国家そのもののエネルギーとなって溢れ出しました。
この日本列島に住む人種は、どの民族にもない秀抜な特性をもっている。
浦賀でペリーの米国艦隊に腰をぬかしはしたが、その翌年の安政元年(1854年)には、幕府では早くも、浦賀奉行与力中島三郎を造艦主任として、英国船をモデルとした洋式帆船「鳳凰丸」というのを国産でつくっているのだ。
その翌安政二年、薩摩藩でも、昇平丸、鳳瑞丸、大元丸の三隻をつくって幕府に献上し、日本唯一の近代工業施設をもつ薩摩藩の名を天下に高からしめた。
さらに、水戸徳川藩も、安政三年「旭日丸」という軍艦を建造して幕府に献じている。
とにかく、外国軍艦をみて数年後には、それに似た船を五隻もつくっているのである。日本人のたくましさと能力は、世界史上の奇蹟といっていいだろう。(『竜馬がゆく』)
1853年に蒸気で自走する軍艦をはじめて目にしてからわずか50年後には、ヨーロッパにおけるもっとも古い大国の1つであるロシアと大喧嘩をし、かろうじて勝利の線上でもちこたえるまでの近代国家をつくりあげました。
驚くべき速度で西洋文明を吸収した幕末・明治期の日本のエネルギーは、列強の脅威への危機感と同時に、鎖国の江戸期を通して極限まで高められた好奇心から来ています。
鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
長崎は、箱の中の日本としては、針で突いたように小さな孔だったといえる。小孔からかすかに世界の光が差し込んできていたのである。当時の学問好きの人々にとって、その光こそ中国であり、ヨーロッパであった。
人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。例えば、オランダ語を学び、オランダの本を読むことによって、ヨーロッパの科学のいくぶんかでも自分のものにすることができたのである。(『洪庵のたいまつ』)
最初に反射炉をつくったのが、九州の佐賀藩であった。嘉永三年(1850年)で、ペリー来航の三年前だった。次いで、薩摩藩が安政三年(1856年)に完成し、その翌年に伊豆の韮山代官所と水戸藩などが、それぞれつくった。いずれも外国の専門家の指導をうけることなく、書物から解きおこして築造された。江戸期の好奇心や経験が、こういう形で結実したのである。(『この国のかたち』)
韮山の反射炉(出典: https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5753324)
日本人の持つこれらの特質は、どのように形成されてきたのでしょうか。司馬氏は、「島国」という環境的要因に着目しています。
壱岐には、唐人 ―漂流朝鮮人であろう― を祀った古址が多い。
海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。(『街道をゆく』)
大陸の進んだ文明は、つねに海の向こうからやってくるものでした。
日本人はその歴史を通して、海の向こうの文明に憧れを抱きつづけてきました。”抱く”だけではなく、舶来の文物やアイデアを柔軟に取り込み、その”憧れ”を実践に移してきました。
古くは飛鳥・奈良時代に統一国家をつくる際に、唐の「律・令・格・式」というものを参考にしました。律とは刑法で、令は行政法的なものをいいます。格は律令の補足や例外的な法規であり、式は律令を施行する際の細かい決まりのことです。
六、七世紀の日本は、律令格式の大部分を導入した。実情にあわぬところは、多少修正された。これさえ導入すれば、浅茅ヶ原(荒れた野原)に組立式の野小屋でも建てるようにバタバタと国家ができると思ったのである。目のつけどころに感心せざるをえない。(『この国のかたち』)
(出典:http://taisi123jp.exblog.jp/9655591)
また奈良朝から平安初期にかけて、命を賭して唐とのあいだを往来した遣唐使船は、主に経典や書物を輸入し、大陸の進んだ学問を取り入れることが目的でした。書物や学問を得るために命を危険に晒して万里の波濤を越えていったことを思うと、痛ましいほどの思いがします。
たとえば平安初期に活躍した空海や最澄は、遅れている日本の仏教をなんとかしようと思い、同時期に留学生(るがくしょう)として入唐しました。やがて空海はインドから唐へ伝来していた密教を日本に持ち帰り、これにすぐれた理論性を加味して「真言密教」として体系化しました。また最澄はおもに天台宗を学び、京を鎮護する寺院として北嶺に比叡山延暦寺を築きました。
平安末期、貿易に殊のほか力を注いだ平清盛も、さかんに宋学に関する書物などを輸入し、また宋銭を大量に輸入することで貨幣経済というものを取り入れようとしました(もっともこれは当時の日本の経済状況に適せず、貨幣の普及は鎌倉の世を待たねばならなかった)。
日本人の柔軟性は、信仰への接し方に特に色濃く反映されています。
日本古来の信仰は、神道でした。
しかし神聖ローマ帝国がその広大な領土をまとめあげるために普遍的な権威を必要としキリスト教を利用したように、奈良朝の日本も統治を確かなものにするために大宗教の普遍性を求め、仏教という普遍性の高い信仰を容れました。
自然をもって神々としてきた日本人が、仏教が伝来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえなかった。(『この国のかたち』)
神道というこの国の原始的自然信仰については、次回の「滅びゆく人類に残された希望は日本古来の自然信仰」に詳細な説明を譲りたいと思いますが、簡潔に述べれば、自然界の山川草木のいちいちに神性を見出し、八百万の神々として畏敬する信仰でした。しかし神道のような精霊崇拝(アニミズム)には一神教や仏教などが持つ普遍性はありません。たとえば、奈良盆地では三輪山という円錐形の丘陵そのものを古来神として崇めてきましたが、むろんこの三輪の神は別の地域ではひとびとを畏敬させるだけの影響力を持ち得ません。日本が仏教のような大宗教を欲したのは歴史の自然な摂理と言っていいでしょう。
三輪山(出典:http://find-travel.jp/article/6082)
しかし驚くべきなのは、仏教を国家宗教として受容しつつも神々が生き残った点です。これは世界史のなかでも極めて稀有な例といえます。
たとえばヨーロッパも古くは原始的な自然信仰が息づく土地であり、ひとびとは森を畏れていましたが、キリスト教の到来とともに土着の自然信仰は駆逐され、いまではアイルランドやスコットランドなどでわずかに面影を覗かせる程度になってしまいました。
六世紀に仏教が伝来した当初、日本の神々は没落しました。格で言えば仏が上、神が下であり、かろうじて消えずに残っている程度でした。
そこに、「八幡神」という異様な神が出現しました。この神はそれまでの神とは異なり、巫(シャーマン)の口を借りてしきりに託宣(神のお告げ)を述べました。やがて仏教がさかんになると、
「古、吾は震旦国(インド)の霊神なり。今は日域(日本)鎮守の大神なり」
と託宣し、仏教優位の新時代に調和しました。
さらに聖武天皇が東大寺の大仏を建立する際には、八幡神はしばしばこの大事業のために託宣しました。
聖武天皇は大いによろこび、大仏殿の東南の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向山八幡宮を造営した。
神社が寺院を保護したのである。いわば、同格に近くなった。これが、平安朝に入って展開される神仏習合という、全き同格化のはじまりになったといえる。(『この国のかたち』)
日本の神々を救ったこの本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ。日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた姿であるとする考え方)は、
「自分はむかし、インドの神だった」
という八幡神の託宣からはじまりました。
結果、神道は仏教的要素と融合する形で今日まで残りました。
ときに心の拠り所ともなる信仰でさえ、みずから積極的に海外から取り込み、融合さえ行ったというのは驚くべき柔軟さであるといえます。
我々がはじめて触れた異国の大宗教を、既存の信仰に取り込んで同格化してしまったことが、我々の「こだわり」のなさや、良いものを日本の事情に合わせて自在に取り込む柔軟さを形づくる先駆けになったといえるでしょう。
次回は、自然信仰としての神道をより詳しく見ながら、現代社会の自然との向き合い方のあるべき姿を探ってゆきます。
「英語教育を通してアンビシャスな人たちの夢を叶える力になりたい」という夢を実現するため、日本人に最適な語学教育のあり方を求め米国ボストンに留学。現在は日本に帰国し、語学教育事業に注力中。帰国後も執筆の機会を頂けたことに感謝しています。大阪大学4年生。