岩田聡という人物をご存知ですか?
岩田氏は任天堂の元代表取締役社長でありながら、ゲームプログラマーでもあった人物です。
名物社長として任天堂ファンたちから親しまれ、2015年に胆管腫瘍の悪化で急逝した際には大きなニュースとなりました。
今回はそんな岩田氏が残した名言をご紹介します。
彼が残した言葉から、皆さんに響く言葉があれば幸いです。
1959年に北海道札幌市に生まれた彼は、中学生の頃からゲームに親しみ、東京工業大学を卒業しました。
ハル研究所や任天堂の元代表取締役社長を歴任し、ゲームプログラマーとしては「星のカービィ」シリーズや、「大乱闘スマッシュブラザーズDX」に携わっています。
高校時代からプログラマーとしての才能の片鱗を示しており、プログラミングを独学で習得し、当時ヒューレット・パッカード社の発売していたプログラミング電卓「HP-67」を使ってゲームを作成しました。そのゲームのデータを同社に送ったところ、完成度の高さからゲームに関する様々な資料が返ってきたというエピソードがあります。
大学卒業と同時に、アルバイトとして働いていたハル研究所に正式入社し、代表取締役社長にまで昇進しました。就任してしてからの6年間で約15億もの負債を完済したという逸話があります。
その後、任天堂の当時社長であった山内溥氏から経営手腕を買われて、任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任しました。その後僅か2年で代表取締役社長に就任しました。
その他にも、発売予定のソフトに関する様々な情報を発信する「Nintendo Direct」を立ち上げる、任天堂の米国法人CEOを兼任するなどしましたが、2015年に胆管腫瘍により55歳の若さで亡くなりました。このことは世界中の人々に大きなショックを与えました。
任天堂ファンからは「いわっち」と呼ばれ親しまれてきた岩田氏。彼の人生は常にゲームと共にありました。「ゲーマー」としてのルーツは中学生の頃から、「ゲーム開発者」としては大学時代から天才プログラマーとして頭角をあらわし、「社長」としてはハル研究所と任天堂という日本を代表するゲーム会社を牽引しました。そんな彼は、誰よりも自社のゲーム・製品を愛し、一つの役割に固執することなく柔軟に物事を考える人だったと考えられます。
岩田氏はプログラマーとしても経営者としても評価が高く、仕事の能力はピカイチでした。しかし、その根源にあるのは「次も一緒に仕事をしたいと思わせよう」という信条だったのかもしれません。
この言葉は、まさに岩田氏のゲームプログラマーとしてのプロ意識の高さを表していると思います。先述の「ポケットモンスター金・銀」の開発の際には、ゲームフリークのチームが難航していたグラフィックの圧縮ツールを岩田氏が開発し、プログラマーの森本茂樹さんは「あの人は社長なの?凄腕プログラマーなの?」と岩田氏の能力に驚愕したそうです。
(参考:https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/ipkj/vol1/index3.html )
2013年の株主総会の議事録で、岩田氏はこんなことを語っています。「私たちは、数年サイクルで山と谷のあるビジネスをしています。短期の業績を求めてリストラをしますと、会社で働く人の士気は下がり、不安に怯えながら作ったソフトが本当に世の人の心を動かせるのか、ということがあります。それぞれの分野の社員がそれぞれの仕事で会社に貢献して今の任天堂はあるので、一部だけを去ってもらうのは、長期的に会社の力を強めることになりません。(一部改変)」この言葉には、岩田氏の経営者としての考え方が表れています。
(参考:https://www.nintendo.co.jp/ir/stock/meeting/130627qa/03.html )
この意識が彼にあったことが、HAL研究所での負債完済や「Nintendo Direct」の立ち上げなどの数々の成功を収めてきた要因の一つであったのではないでしょうか。
いかがでしたでしょうか。
岩田聡のことを知っていた人も、今回の記事を読んで初めて知った人も、彼の生き方から自身の将来につながる何かを見つけられたのなら幸いです。
もっと彼について知りたいと思った人は、ぜひ彼の言葉をまとめた本を読んでみてください。
公開日:2023-08-28