大勢へ順応する保身の徒。「意識高い」と揶揄する・される両者に言いたいこと。

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先日、『「意識高い系」っていうな 批判が生んだ社会的損失』という記事を見て大きな衝撃を受けました。「意識高い系」という言葉が話題になりはじめてからすでに久しいですが、「起業」や「世界一周」などに対してだけではなく、勉強やスポーツを頑張っている学生に対しても「意識高い」というレッテルを貼り付けて距離を置くような人がいるということに驚きを禁じえないと同時に、日本人の「大勢に順応する保身の徒」という体質を垣間見た気がして、なにやら悲しくなりました。

つまるところ「意識高い系批判」というのは、活発に動いている人を見て生じた何もしていない自分への焦りが、ねじ曲がって顕現したものと言っていいでしょう。頑張る人によって足並みを乱され、相対的に自分の努力量が減ってしまうことに「保身の徒」が反応し、潜在的な危機感を抱いて足を引っ張りたくなるのです。卑怯というほかありません。

一応この稿は司馬遼太郎氏の思索のあとを辿りながら「日本人」とは何者なのかを考えてゆくという趣旨の記事のひとつなので、以下そうした体質が日本史の中でどのように形作られたのかという説明を差し挟みますが、興味のない方は次の見出しへ飛んで頂いても構いません。

記事ダイジェスト ※クリックで該当箇所にジャンプ
1. 泰平の世の代償
2. 不毛な揶揄
3. 揶揄される側の問題

泰平の世の代償

日本人は、元来大勢への順応者であったわけではありません。
日本人のなかにそのような体質ができあがったのは、江戸期を通してでした。

たとえばそのひとつ以前の戦国期は、うってかわって能力主義が勃興し、武将たちが能力を競い合い、”個”を顕示しあった時代でした。
能力主義という、この狩猟民族にのみ必要とされる価値判断基準は、弥生期以降の農耕主体の長い伝統の中で眠らされてきました。途中、戦国の100年がこの遺伝体質を目覚めさせはしたものの、続く江戸期は能力主義を否定した時代で、否定することによって封建制の秩序を保とうとし、日本人たちはふたたび農耕型の精神と生活に戻りました。

徳川の家ひとつを守るために全人民の身分と居住地を固定して縛りつけ、260年の泰平の世をつくりあげた江戸期の体制が良かったのかどうかは、ここでは触れません。が、ともかくも、

「すべてはお家のため」

ということで、個をおさえこみ、全体を活かそうとする気風が濃厚になるのは江戸時代からで、まじめで従順であることが日本における最良の生き方であるという土壌ができあがりました。個性の強い人は生きにくい時代でした。

たとえば武士の家では、つねに「お取り潰し」への恐怖がありました。

たとえば百石取りの家はそのお禄のおかげで、過去何代もの男女が衣食してきたし、将来もまた多くの子孫が養われてゆく。このためもし百石取りの家の若い当主が不出来で不埒なことをすれば、その母親を含めて一族の長老があつまって当主を押しこめにしたり、ときには切腹させ、上の罰の家におよぶのを避けた。
江戸時代は思想史や芸術史の上でじつにおもしろい時代だったが、なにぶん、政治・法制の原理がひたすらな秩序維持であったため、どんな小侍の家の家系をみても、何代かに一件くらいは、押しこめ、”自発的”な切腹といったような一族合議の処置に遭った人が出た。(『この国のかたち』)

百姓も同様で、「五人組」や「村請制」といった連帯責任が農村支配の要であったために、共同体に厄介事を起こしかねない強烈な個性はつねに押さえつけられてきました。

こうした武士、百姓それぞれの事情にくわえて、全人民がみな生まれによって身分・居住地・職業が原則として固定されていたために、好奇心や冒険心、前衛精神といった類のものは抑圧され、事なかれ主義が強く根付きました。

竜馬は兄の権平の部屋をたずねた。
「わしァ、脱藩して浪人になるよ」
「えっ」
温厚な権平はびっくりした。
「おどかすなや」
脱藩は、罪が親類縁者におよぶ。坂本家の家門の維持にかかわることだ。
「竜馬、気でもくるったか」
「気は、たしかです」
「竜馬、耳の穴ァ、かっぽじってよう聞け」
兄の権平は、度をうしなっていた。
「この坂本家は、郷士ながら197石の領地、10石4斗の禄米を頂戴する国中でもきっての名家じゃ。その家から脱藩人が出たとあらば家がとりつぶされるかも知れんぞ」
「こまったな」
竜馬はにやにやしている。
「なにを笑うちょる。まじめになれ」 (『竜馬がゆく』)

不毛な揶揄

揶揄する人たちというのは、「意識の高い」連中が足並みを乱すことによって、相対的に自分たちの意識や努力量が下がっていることに焦りや危機感を抱いた結果、彼らを揶揄したくなるのでしょう。日本人のなかに眠っている「大勢への順応者」「保身の徒」としての体質がそうさせるのかもしれませんが、彼らを「意識高い」などと揶揄することにメリットはなにひとつありません。足並みをみだす1人や2人の気持ちを挫いたところで、あたかもセンター試験で隣席の受験者を妨害するようなもので、あなたに直接的・間接的な益は何もありません。一時的なストレス発散にはなるかもしれませんが、ますます根性を歪ませるだけでしょう。

頑張る人を見て焦る気持ちがあるなら、彼らを揶揄するのではなく自分も何か動き出してみるか、あるいは「人は人、自分は自分」とのんびり自分のペースでどっしり構えていれば良いだけのことです。ただ批判だけしているというのでは、心の余裕の無さや、周囲に流される芯の弱さが見え隠れしてかえって自分が情けない姿をさらす羽目になります。

むろん、「意識高い系」の人のなかには鼻につくような傲慢な言動を繰り返したり内実の粗末なまま偉ぶっているような人もいますし、彼らに不快感や怒りをおぼえる気持ちもよく分かります。

しかしそれに対して陰口を言うことに何の益があるでしょうか。多少イラッとしたとしても、目くじらを立てずにサッと流すのが大人の対応と言うべきでしょうし、もし身近な人がそうなってしまっているのなら面と向かってはっきりと忠告すべきでしょう。

くどいようですが、外野からの批判や揶揄には、生産的なことは何ひとつありません。どうせ何か言うのであれば、素直に応援するほうが晴れやかな気分になってよっぽどあなたのためにもなるでしょう。

さらに言うなら、意識高い系の存在を許さないことによって、社会からリスクの取れる人を減らしてゆくことになります。心ない批判によって間接的に社会の発展すら妨げている可能性があるということを頭に留め置くべきです。

話を江戸時代に戻すなら、維新の原動力になった薩摩藩も長州藩も、郷中教育やハグクミといった、身分という時代の原則を越えて逸材を士分に取り立てる仕組みや気風がありました。才覚さえあれば身分秩序を乱すことを厭わず、本来なら異端児として処理されるような人材を登用し、積極的にリスクを取れるポジションを与えたために両藩は幕末の騒乱のなかで屹立し、時代を進める立役者となることができました。

「意識高い」批判は、個人々々にとっても社会にとっても、利するところはありません。

揶揄される側の問題

かといって、「意識高い」側の人たちにも問題がないわけではありません。
揶揄される側の人たちに言いたいのは、

「そもそも揶揄させるな」

「揶揄されてもいちいち気に留めるな」

ということです。

私の友人に、「国連に勤務して紛争解決に携わる」「40代で総理大臣になる」といったような大それた夢を語るひとたちが何人かいますが、彼らは能力も根性も努力も人間性も並外れているために、また夢をあまりに堂々と語るために、周囲も、

「あいつはほんまにすごい」

と言うのみで、尊敬こそすれ誰も彼らを揶揄しません。

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(出典:満田拓也『MAJOR』)

かくいう私も、本来なら就活をしているべき時期ですが、就職はせずにずっと続けている英語教育事業で卒業後も食べてゆくつもりでいます。残り一年足らずで経済的に独り立ちできるだけの事業規模にしなければならないという焦りと不安をつねに抱えながら生活しているので、揶揄や冷笑に耳を傾けている余裕もないというのが正直なところですし、その時間があるならもっと有益なことに費やしたいとも思います。

この国で人と少し変わった生き方をしようとするなら、世間からの抵抗や白眼視は覚悟しなければならないでしょう。不毛な批判とためになる忠告をきちんと聞き分け、揶揄をいちいち気に留めずに自分の足でしっかりと立っているだけの強さがなければなりません。「意識高い系批判」程度で挫けているようでは、この日本で生きたいような生き方をするのは少し難しいのかもしれません。

「よし、雫、自分の信じるとおりやってごらん。
でもな、人と違う生き方はそれなりにしんどいよ。
何が起きても誰のせいにも出来ないからね」(スタジオジブリ『耳をすませば』)

頑張っていること、頑張ろうとしていること、何かに熱中することが批判される社会は、あまりに悲しく先の暗い社会です。これからの日本と世界をつくってゆく我々学生が熱意と希望と開拓者精神をもって日々を生きずに、どうして明るい未来が語れるでしょうか。私は日本という国が、誰もが自分の夢や熱意を目を輝かせながら誰はばかることなく堂々と語れる社会になることを切に望みますし、私も教育事業を通してそうした社会の実現に少しでも貢献できることを強く願います。

この記事を書いた学生ライター

Kazunori Wakao
Kazunori Wakao
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「英語教育を通してアンビシャスな人たちの夢を叶える力になりたい」という夢を実現するため、日本人に最適な語学教育のあり方を求め米国ボストンに留学。現在は日本に帰国し、語学教育事業に注力中。帰国後も執筆の機会を頂けたことに感謝しています。大阪大学4年生。

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