哲学って役に立つの?~古代哲学史から哲学の有用性を考える~

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この記事では、哲学の歴史について紹介しながら、「哲学って本当に役に立つの?」という問題を考えていこうと思います。ただし、本題に入る前に、「そもそも哲学とは何か」という問題を考えていきましょう。


「哲学」と聞いて、何を思い浮かべますか?

哲学って役に立つの?~古代哲学史から哲学の有用性を考える~

皆さんは哲学と聞いて、何を思い浮かべますか?

高校の科目である「倫理」や、評論文のやたら難解な文章、そして公民にでてくるホッブズ、ロックといった名前を思い浮かべる人が多いでしょう。このように学校の授業においても哲学が取り上げられることは少なくありません。一方、「経営哲学」といった言葉や「あの人には哲学がある」、「哲学的だね」といった言い回しにも表れているような、何やら深い考えのこと、といったイメージが思い浮かんだ人もいると思います。また「なぜ人を殺してはいけないのか」「妊娠の中絶をしてもよいか」といった倫理的問題を思い浮かべた方もいるでしょう。

 

いろいろな哲学

 これらの例からもわかるように、哲学という言葉は非常に多種多様な形で使われており、その意味合いははっきりしていません。

そもそも、「哲学」という言葉の語源をたどると、ギリシャ語の「φιλοσοφία」(philosophia<注1>)という言葉に行き着くのですが、この言葉は「知を愛すること」といった程度の意味合いしかありません。

「数学」「物理学」「歴史学」といった学問が比較的定義しやすい一方で、「哲学とは何か」という問いはそれ自体が哲学的な問題を構成しています(実際に多くの哲学者が哲学の定義、分類を試みてきました)。この問いを考えるだけで一つの記事が書けてしまうので、今回は簡潔に、典型的な哲学の分類を挙げて、どのようなものが哲学に含まれるかを書くにとどめます。


哲学の分類

哲学はまず、広義の哲学と狭義の哲学に分けられます。

「人生の哲学」「経営哲学」というような人生観、抽象的で深い洞察などは広義の哲学です。

それに対して、狭義の哲学とは西洋周辺における、根本原理(世界の在り方等)を論理的に厳密に探究する学問とその歴史を指します。狭義の哲学の中にもさまざまな分類があり、分析哲学、科学哲学、倫理学、美学、宗教哲学などは狭義の哲学の一分野、または狭義の哲学と深いかかわりがある学問であるといえます。

この記事で主に取り上げるのは狭義の哲学(学問としての哲学)です。


哲学と日常の深いつながり

前の章で広義の哲学と狭義の哲学の分類の話をしましたが、「狭義の哲学(学問としての哲学)って本当に日常に役立つの?何やら難しそう」と思った方も多いと思います。

しかし、むしろ学問としての哲学は日常の物事を考える上でも大いに役に立ちます。例えば、「AIに思考をすることはできるか?」といった問いを考えるうえでは、そもそも「思考とは何か」ということを理解しないことには考えられませんし、より日常的な問いでも、そのなかにある「よい・わるい」といった価値判断はそれ自体が哲学的な問題をはらんでいます。

例えばこの記事の題にもある「哲学が役に立つ」とは、「哲学が何かに対して良いことをもたらす」という意味でしょうが、一体 "役に立つ" とは、誰にとって、どのように役に立つことなのでしょうか?そして、もし「哲学は役に立たない」として、役に立たないことはなぜ悪いことなのでしょうか?

このように、物事をよく考える場面では、たとえ日常的な話題であっても、哲学的な思考や抽象的な概念に触れます。だから哲学的な思考が役に立ちうること自体は否定できないと思います。しかし、倫理の教科書で習うようなプラトン、アリストテレス、デカルト、カントといった哲学の "歴史" とこうした日常的な問題がどのように関わるのか、そしてどう役に立つのか、という疑問は依然として残るでしょう。そこで今回は哲学の歴史、とりわけ古代哲学の歴史について学びながら、哲学的探究の功績の大きさを示し、「哲学は役に立つのか」という問いに答えていこうと思います。


古代哲学史その1:哲学の起源とデモクリトスの原子論

古代の哲学はギリシャとその植民地を中心として発展します。当時のギリシャでは世界がどのように成り立ったかを神話によって説明していました。しかし、神話というものは体系的ではあっても目に見える現象を説明したり、客観的そして論理的に説明したりすることには限度があります。そこで世界の成り立ちを客観的にわかる形で説明しようとしたのが哲学の始まりです。

哲学によって世界の成り立ちを考えるうえで、世界を構成する原質(ギリシャ語でアルケーと言います)が何であるか、という問題が中心的に取り上げられました。

水や空気といった原質が考えられる中で、ある大きな問題にぶつかります。それは存在と変化がいかに関係できるのかという問題です。原質(アルケー)は万物の根源たるもので在りながら、世界を構成する様々な物に成るわけです。この在ると成るの関係はいかにして成り立つのでしょうか。

まず、当然ながら原質と世界を構成する個々のものは別のものであるので「なぜ原質でありながら他のものになりうるのか?」そして「原質がどのようにして、どうして他のものになるのか?」という問題を答えずには万物の根源は考えられない、という問題に突き当たりま.した。

この生成と変化の問題の答えを提示したのが、デモクリトスの提唱した原子論<注2>です。デモクリトスが提示した世界観は、簡潔に表すと、世界は物の最小単位である原子とその原子が運動する空間によって成り立っており、空間を移動することで原子同士がつながったり離れたりして、原子のつながり方、位置に差異が生まれ、世界を構成する種々のものになる、という考え方です。このように考えると、原質が原質でありながらこの世界を構成する種々のものになることが矛盾なく説明できます。なぜなら、この原子論によると、万物は原子によって構成されているのですが、原子のつながり方の違いによって区別がうまれるために、現に世界に様々な物が存在していることを説明できるからです。

この原子論のすごいところは、この考えが現代の原子についての科学的認識の基礎的な部分を言い当てている、ということです。物質に最小単位がある、という考え方はまさに現代の素粒子の存在を言い当てています。また、原子のつながり方が差異を作り出す、という考え方は、現代における原子が陽子と中性子の数の違いによって区別されるという事実と合致しています。デモクリトスがいた当時は、現代の原子を観測する技術がないどころか、虫メガネすら発明されていないような時代です。にもかかわらず、原質についての理論的な突き詰めによって現代科学の知識の基礎を築いているのです。


古代哲学史その2:問題の転換とソクラテス、プラトン

哲学って役に立つの?~古代哲学史から哲学の有用性を考える~

 さて、その1では古代哲学の初期思想である、万物の根源を探し求めた哲学とその結論として作り出された原子論、そしてその大成者であるデモクリトスをご紹介しました。このように、問題の理論的突き詰めが大きな成果を生みうる(原子についての科学的認識の基礎的な部分を言い当てることができた)という点で我々は「哲学が役に立つのか」という問いに一つの答えを見いだすことができたわけですが、しかしこれには疑問点が残ります。それは、このような理論を突き詰めるという行為は、哲学に限らず多くの科学が行っていることではないか、という点です。デモクリトスのいた当時は、先もお伝えしたように自然科学の方法論や技術がまだまだ未発達でした。では科学技術が目覚ましいスピードで進化し続ける今でも、哲学には他の科学と差別化できるような強みがあるのでしょうか。

更なる哲学の可能性を求めて、デモクリトス以後の古代哲学を見ていきましょう。デモクリトス以後のギリシャ思想は大きく分けて二つの流れがあります。一つはソフィスト、もう一つはソクラテスとその弟子たちです。彼らにおいて新しい哲学の問いが見いだされることとなります。

先のデモクリトスの原子論において、存在と生成の問題が解決し、世界の在り方を大きな矛盾なく説明できる理論は完成しました。しかし、この完成したところで一つの新たな問いが見いだされます。それは "人間がどうあるべきか?" という問いです。

デモクリトスまでの哲学者は原質の在り方を解明することで人間がどうあるべきかを説明できる、と考えていました。例えば、デモクリトス本人も原子論をもとにして倫理について言及しており、原子の安定こそが善い状態であるとして、喜びの適切な状態、生の均衡に基づく「快活」が人間のあるべき姿である、と述べました。しかし、原子論をもとに人間を論ずること自体は(万物の根源たる原子をもとに人間を理解しようという試みであるので)一定の設定力を持ちますが、なぜ原子の安定こそが「善い」状態であるとどうして言えるのでしょうか。

デモクリトス以後の哲学者たちは、まさにこの部分に着目しました。すなわち、この世界がどのように構成されているかはともかくとして「我々がどのように生きていくべきか」という問題はそれとは別に考えなくてはならないと考え、我々人間の価値判断について哲学が展開されていきます。この価値判断をめぐる問いについて、代表的なソフィストであるプロタゴラス「万物は人間の尺度である」として、人の数だけ真理があるとした相対主義を唱えました。

また別のソフィストであるゴルギアスは、人間の価値判断の尺度は何もなく、有ったとしても認識できず、認識したとしても伝えることはできない、という徹底的な懐疑論を唱えたのですが、彼らの議論にはやや不足を感じざるを得ません。というのも、彼らの唱える人間の価値判断についての言説はデモクリトスが唱えた原子論に匹敵するほど洗練されておらず、それゆえ人間は消極的な態度をとらざるを得ない、という結論に至ってしまっています。

人間として社会を生きるうえでは、政治・論争・争いといったものごとに参加することが必要でしょう。そのためには、人間の価値判断についてもさらに検討する必要があります。そして、そのこうした積極的な価値判断を始めて問題にしたのがソクラテス<注3>です。ソクラテスは「魂への配慮」を問題としました。ここで言う「魂」とは大まかにいえば人の心、人格のことを指し、そうした魂をいかに善くするかを考えなおさなければならない、と主張しました。

ソクラテスと言えば、当時高名だった知識人と会って、その人に問いかけを続けて、相手の無知を暴露するという産婆術のイメージが強い方も少なくないと思いますが、ソクラテスのこうした態度は、「人間はどのように生きるべきか」という問題が今まで誰も本当は(ここでいう "本当は" とはすなわち、物の在り方と独立して)考えたことのない問いであり、この問いに答えるためには、まず皆がこの問いが問われるべき問いであることを知る必要があると考えてのことだとすると、納得がいくのではないでしょうか。というのも、もしソフィストの言う通り人間の価値判断が相対主義や懐疑的姿勢によって片付けられるなら、彼らは万物の根源についても人間についてもほとんどのことを知っているはずですが、ソクラテスの問いかけに答えられないということが、我々にまだわからない問題があり、いまだに問われるべき問題が残っていることを示すことになるからです。

こうしてソクラテスが提出することとなった人間の問題は、ソクラテスの弟子であるプラトンが応じることとなります。プラトンは複雑な哲学体系を構築し、人間の生き方について一つの答えを作り出したのです。まずプラトンはイデア界という概念を提唱します。イデア界とは現実世界とは別の、イデアによって構成されている世界のことです。イデアとは物事の性質だけの存在であり、例えば、花というものには、それに伴う匂い、色、また花を見たときに感じる美しいとかかわいらしいといった感情が付きまといますが、そういった性質のみの存在のことをイデアと呼びます。

プラトンはイデア界があり、イデア界を現実の世界が模倣しているから現実の世界はイデア界に似たような姿形をとっていると主張します。「人間はどのように生きるべきか」という問いに関しては、物質的な姿形を持たないイデア界にある「善のイデア」を理性によって認識し、それに基づいて人々が行動する世界を理想としました。このイデア界という概念はあまりにも唐突に聞こえるかもしれませんが、ソクラテスの提出した「人間はいかに生きるか」という問題が、「(物質的)世界がどのように存在しているか」という問題と比べて同等以上に考えなくてはならない問題であることを、既存の世界像と矛盾しない形で提出していることにイデア論の大きな価値があります。


まとめ

 さて、その2ではデモクリトスからの問題の転換をテーマに、ソフィスト、ソクラテス、プラトンの思想を扱ってきましたが、この問題の転換こそが哲学の有用性を示すもう一つの点であると考えます。先に述べたように、デモクリトス以前の哲学は、人間の問題と万物の根源の問題を区別して考えることはありませんでした。しかし、ソフィストやソクラテスを通して、哲学の内部から人間の問題を独立に考えるべき問題であることを明るみに出しました。哲学は単に問題を突きとめるにとどまらず、問題を突き留めようとするその方法を根本から変え、全く新たな問題を作っていくことができます。これは他の科学には通常<注4>できないことです。また、哲学の歴史を学ぶことの重要性も一つ、示すことができます。それは哲学の問題の突き詰めにおいて生み出された数々の過ちを学べることです。最初期の哲学者は、存在と生成の関係をうまく説明できず、デモクリトスやソフィストは、人間がどう生きるべきかを独立して考えることができませんでした。哲学が対象とするのは極めて抽象度の高い問題であり、人間の普段行う思考では歯が立たないことも少なくありません。こういった問題を考えるうえで、既に多くの天才的な哲学者が、そうした抽象度の高い問題を考えるうえで過ちを犯してきたわけです。哲学の歴史を学ぶことで彼らの轍を踏むことを回避できるとは、大変すばらしいことだと思いませんか?

最後に、この記事では一つ重要な問題に答えていませんでした。それは、哲学が有用だとして、「どのように哲学をすればよいのか?」ということです。先も言ったように哲学はその方法にも常に目が向けられます。つまりこの問いも一筋縄ではいきません。次回は近代の哲学の歴史をとおして、この哲学の方法論の問題を考えていこうと思います。

(執筆:水野航資)

公開日:2023-09-19


注と参考文献
岩崎武雄『西洋哲学史』有斐閣1975年
編:内山勝利『哲学の歴史〈第1巻〉哲学誕生―古代1』中央公論新社2008年
編:田上孝一『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』法政大学出版局2018年

<注1>ラテン語。

<注2>デモクリトスの師であるレウキッポスも原子論に深くかかわっていたことを付け加えておく必要があります。

<注3>ソクラテスは自身では著作を残しておらず、その思想の多くはプラトンなどの他の著者の著作から把握されたものです。ソクラテスの思想が他の著作者の影響を受けている可能性は否定できません。

<注4>もちろん他の科学も自身の理論に懐疑をむけることはあります。しかし哲学はより高頻度に、より深く理論への懐疑を行うことができます。基本的な姿勢として科学は根本的な懐疑を日常的にすることはありません。詳しくはトマス・クーン『科学革命の構造』参照。

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