多くを知っているかどうかは、賢さの指標ではありません。雑学王はただの物知りであるし、学者はその道の専門家に過ぎません。
賢さとは知性です。知性とは極めて多様なもので、様々な方法で育むことも出来れば、その現れ方も一様ではありません。そういった、知性を育む過程で用いる一手段が「知識の獲得」なのであって、獲得の結果それ自体は、知性とはあまり関係がないのです。
大学教育を受けずとも「賢い」人々がいて、大学教育を受けても「賢くない」人々がいるのはこういう所以でありましょう。後者は、しばしば「お勉強だけは出来る」や「頭でっかち」などと揶揄されます。
今回のコラムでは、危機に瀕している大学教育とそこで学ぶ学生の姿を考えていきます。(出典:https://www.flickr.com/)
学生生活を送っていると、大学という組織の綻びが垣間見えることが多々あります。それらの綻びは看過されることの多いけれども、一人一人の学生に違和感が積み重なっているのは確かでして、大学に通う意味が分からなくなったり、自分が学んだことが無意味に思えたりする学生は少なくありません。
綻びのもっとも分かりやすい一例として、「お勉強だけは出来る」学生が、その勢力を増していることがありましょう。教育の最高機関である「大学」に4年間もいて、学問を通して知性を育むことなく、得るものは教養を“誇示”する知識と学歴だけというのでは、そのことに無意味さを覚えたとしても無理はありません。
こういった状況は上の世代にも周知のものです。教授や講師の方が仰っていることを聞くには、「今の学生には自発性がない」という風に受け止められるようです。これは本質をついているにせよ、彼らの中には、自発性欠如の所以を時代の産物として受け止め、それじゃあ仕方ないからこちらも諦めるよと、学生を責めてしまうという風潮も実際にあり、これでは悪循環は止まらないなぁ、と思うと同時に、ある種の情けなさを感じたものです。
「一般教養科目は不要ではないか。」
学生なら誰もが薄々感じるだろうこの疑問、真剣に考えたことのある人は、どれだけいるでしょうか。これも奥の深い問題なのですが、その意義を論じることは、又の機会に譲るとして、ここでは、一般教養科目への学生の態度から、問題の本質を炙り出してみましょう。
一般教養科目への学生の意見を集約してみると、
"一般教養科目を通じて得られる知識は、就職や私生活にもなんら実益を及ぼすことがなく、その上に講師のやる気がない場合も多いから、面白くないし、真剣に取り組むだけムダである。"
あるいは、
"あらゆる知識が有機的に結び付いていることは分かるし、何かの役に立つのかもしれないが、実際そうは感じられないし、そもそも面白くない。"
という具合でしょう。
これらの主張から感じられるのは、徹底的に受動的な姿勢に加え、近視眼的に『役に立つか立たないか』で物の価値を考える短絡的思考です。 (阪大名物、斎藤さん。講義を聴講しにきたくせに寝る、パンキーなヤツ。)
人と関わっていると、その魅力の多様さには驚かされます。みな、何かしらの魅力を必ず持っています。この人には何もないな、と思ったことは一度もありません。常々思うのは、人にはそれだけ多様な魅力があるはずが、学生としての魅力に何故結び付かないのか、ということです。
学生には魅力がありません。夢も、信念も、意思も、意見もない。自発的には発言しない、学ばない、考えない。知識が益を直接もたらさないからといって、価値を貶める短絡的発想、自分から面白くするという発想に欠け、与えられたものを消費するだけでよしとする受動的な姿勢。それでも、単位だけはきっちり取って、権威のある者には従うという奴隷根性。そのうえ、逆評定はじめとして、陰での批判はしっかりする面従腹背の精神、こういったものが習慣として染みついているのです。学生の一般教養科目への意見は、これをよく反映しています。
でも、これは本当に学生の責任でしょうか。個人の魅力があるのは確かなのに、学生の魅力に繋がらない、創造性と活気にあふれ、学問もその他のことも積極的に行う学生が殆ど現れないのは、そうさせない何かがあるのではないでしょうか。
こうした受動性や短絡的思考、好奇心や学問的探求心欠如の原因は「大学入試」を頂点とした教育システムにあると私は断言します(就職についても触れたいのですが、それは次の機会に)。
我々の時代において、高校の良し悪しを決める基準は何でしょうか。良い大学にどれだけ合格者を出しているかです。中学は?小学校は?
小学校は良い中学のために、中学は良い高校のために、高校は良い大学のために(大学は良い企業のために)。
では“良い”大学に入るためには何が必要でしょう?創造性ですか?それとも積極性ですか?夢ですか?違います。「試験に受かる」ことです。求められるのは、与えられた指示に従って処理する能力。
だから、(特に高校教育では、)問題解決能力ばかりが重視されます。しかも、パターン化されたものです。自分の頭で考えることの大切さとか、学びの意義だとか、知の魅力といったものには関心が払われない。むしろ「数学が人生の何の役に立ちますか」と学びの意義を問おうものなら叱責されるでしょうし、独創性に富む答えより出題者の意図に沿う答えが好まれます。あらかじめ答えの決まった問題を解かせることばかりに終始し、思考の多様性、解釈の無限性は排除され、テストの点に結び付く、すぐに結果が出るような勉強法が至高であるとみなされているのが、大学入試を頂点とした教育システムなのです。個性を徹底的に抑え込んで、これが教育と呼べるでしょうか。
多くの学生はこういう環境でずっと”お勉強”してきたのです。大学に入るや否や莫大な自由を与えられ、さあ好きに学べ、と言われても、学ぶ意義を知らないのだから、何をしたらいいか分からなくなるに決まっています。魅力の発揮などしようもありません。消極的で好奇心が貧弱だからといって、誰が学生を責めることが出来ましょう。現状、教育が若者を殺しているのです。
高校までの教育が大学入試のサブシステムと化している限りは、若者の自発性や独創性が育まれることはないでしょう。質の高い学生を選別するはずの大学入試が、かえって学生を受動的なさしめているのが現実であるならば、この構造的問題を解決しない限り、いくら崇高な理念や必要性を説いたところで、学生が積極的に学ぶ姿勢を見せることはありません。
我々にはまだ、社会を直接変えるほどの力はありません。いえ、あるにはあるのでしょうが、少なくとも現実的ではないでしょう。しかし、発想を変えることなら出来ます。
授業が面白くないと思うなら自分で面白くする、意義が与えられていないなら自分で見出す、そういった積極性や、参考文献を全部読んできて教授に食らいつくくらいの反骨精神は、自分たちの意思次第で得られるものです。遠回りに思えますが、一人一人の発想の転換が、いずれ社会を変えることになるでしょう。
ですから、次回のセメスターでは、自分の興味のある分野の中から、絶対に本気を出すし、決して努力を諦めず、教授にも体当たりするぞ、という授業を一つ選んでみたらどうでしょう。知識を大学から受動的に授かるのではなく、自分から吸収して、今度は自分の意見もぶつけてみるのです。もしやり通すことが出来れば、得られるものは多く、自信もつき、もっといろいろなことをやりたくなること間違いなしです。たった一つでいい。たった一つでも、胸を張って「この授業を通じて何かを得たぞ」と言えるならば、十二分です。自分の面白いと思ったことを、目を輝かせながら語ることのできる学生が増えていけば、大学はきっと、いえ間違いなく、今より楽しく活気に満ちた場所になります!
私自身、大学での学びに疑問を感じることが多く、このような記事を書くに至りました。考えもまだまとまっていない部分が多く、全体の主張もぼんやりしたものになってしまいましたが、もし問題意識を喚起できたのなら幸いです。
人の才能は多様なものです。知もまた、多様です。大学でなければいけないという必然性はないのに、大学がヒエラルキーの頂点に立っている社会の構造は、何かおかしいです。何がおかしくしているのでしょうか。考えれば考えるほど、その問題の巨大さに気力をそがれてしまいます。
ともあれ、我々学生は今出来ることに最善を尽くしましょう!学生の力で、よりよい社会を!
拙文、浅見失礼いたしました。よい、春休みを。
大阪大学外国語学部ロシア語専攻の3年生。現在、ロシアはサンクトペテルブルク大学に留学しています。寒いです。趣味は芸実鑑賞、ボードゲーム、将棋。将来の夢は高等遊民。自分の感じたこと、考えたことを飾ることなく紹介していきたいです。犬派。