パキスタンから帰ってきたら大ニュースになっていたパリの襲撃事件。 ISISの日本人人質拘束事件で揺れる国際社会。
この時期だからこそ、私の目で見てきたイスラムを発信していきたい。
・・・ということで、本日は私が旅で感じた”イスラム”についてお届けしたいと思います。
これはパキスタン人の友人の言葉である。 一日五回のお祈りに始まり、人付き合い、服装、水の飲み方まで。
「それらの行いはすべて、プラスの効果をもたらすことが科学的に証明されているんだ。お祈りで頭を地につけることで、地面から脳に入ってくる放射線が落ち着きをもたらすことも証明されている。科学の発展していなかったその昔に、どうやってこれらのことを知り得たというのだろう。神だからなんでも知っているのさ。」
と、教育されたイスラム教徒である私の友人は語った。(出典:http://www.ima-earth.com/contents/entry.php?id=201182172349)
モスクに一度でも行けば、彼らにとって宗教がどんなに尊いものであるか、肌で感じることができるだろう。 ナークという、ムスリムにお祈りの時間であることを知らせる、お経のような掛け声に、お祈りは始まる。 ナークが鳴りはじめると、いつもふざけてばかりの友人は急に黙りこくる。 深刻な表情に気圧されて、私も思わず口をつぐんだ。 ナークの間に話を続けることは、失礼にあたるのだと、後で友人は教えてくれた。 一通りナークが鳴り終わると、しばらく経ってからお祈りは始まる。 基本的にお祈りするスペースは男女で分かれており、 決まった方角にむかって皆、一斉にお祈りを始めることになる。 ひざまずくタイミング、立つタイミング、またひざまずいて頭をさげるタイミング。 すべてが規定されており、決められたタイミングで大勢のムスリムがお祈りする光景は、独特の神秘的な雰囲気を醸成している。
“イスラムは、生活の全てを規定する。“ 友人の言葉通り、彼らにとってイスラムは彼らの人生の柱なのである。
パキスタンで思い出したのが、サウジアラビア出身の友人の言葉である。 「私は、小さい時に母にこう聞いたことがあるの。『なんで女の子はヒジャーブ(ムスリムの女性が髪を隠すスカーフ)をしなきゃいけないの?』って。そしたら母親が、『あなたは、包装してあるキャンディと剥き出しのキャンディ、どっちが食べたい?』私は『包装してあるキャンディがいい、剥き出しのキャンディはゴミやほこりがついてそうだもの。』と答えたわ。」
ヒジャーブ意外にも、肌を露出してはいけないという決まりがイスラムにはある。 イランでは、ヒジャーブの着用は義務化されており、そこまでとはいかないパキスタンではヒジャーブをつけずに歩いている女性も多々見られるが、それでも皆、体の線が出ないようなゆったりとした服をきて歩いている。
これらは全て、女性への抑圧の象徴のように語られることが多いが、実際女性たちはそのように感じていないように思われる。 例えばフランスに住むモロッコ人の友人は、 「フランスでは学校でヒジャーブを着けちゃいけないのよ。」と不満そうに語っていた。 ヒジャーブを女性への抑圧とみなすのは外部にいる人間の考え方にすぎないのかもしれない。 髪は女性にとって美しさの象徴で、それをむやみに男性に見せないようにすることで、男性の暴力から女性を守るという意味合いがあるのだそうだ。
「イスラムでは、女性はとても大切に扱う存在なんだ。」
と友人は言う。 実際に、パキスタンに来てからの彼は、私が「よっこらせ!」と私の背丈ほどあるバックパックを背負おうとすると、 「パキスタンでは女の子が重い荷物を持っているのは異様に映るから。」 とひょいと横取りされ、バスに乗るときもいつも意識的に奥の席に通してくれた。 また、そんなときに次に彼の隣に乗ってきたのが女性だったりすると、私ともう一度席を変わって女性の隣に私が来るように、見知らぬ女性にも配慮したりする。
また、私自身、電車のなかで立っていると、おじいちゃんに席をゆずられることもあった。 「えっ?いやいや、いいですいいです!!!」 とぶるんぶるん首をふったが、周りの人々の表情から察するに当たり前であるらしいということが伺えた。
実際、どれだけイスラムで女性が大切に扱われているかというのは、服装を変えてみるともっと簡単にわかる。 普段私は、イスラムのルールは守りつつも、それなりにおしゃれを楽しむような格好をしていたが、顔を見れば外国人であることはバレバレなので、どこへ行ってもジロジロと遠慮なく眺め回されることが多かった。
しかし、友人の母親の衣装を借りて、ブルカという目以外をすべて覆うような格好をしてみると、周りの対応は驚く程変わった。肌を隠している女性をジロジロ見ては失礼である、という意識があるようで、まわりの人々が私を意識的に”見ない”ようにしている。
また、長蛇の列の最後尾にのこのこやってきたところ、”どうぞ”とあっさり先頭を譲られたりしてしまうのである。パキスタンでは、女性が女性としてとても大事に大事に扱われたことをひしと感じた。
また、周りにそうやって扱われることで、自分自身の中にも女性としておしとやかに振舞おうという意識さえ出てきたように思う。
「女は女として生まれるのではなく、女になるのだ。」というボーヴォワールの有名な一節を思い出させるエピソードである。
「男女が一緒にプレイしているプロのスポーツを見たことがあるか?ないだろう?それは差別か?ちがうだろう、女性と男性は別なんだ、それだけだ。」と友人は語った。 イスラムでは、女性は抑圧されているのではなく、女性として、男性とは別の存在として大切に扱われ、よりますます女性らしくなっているのだろう。
とはいえ、ムスリムの間でも近年、世俗化が進んでいるのは事実である。
若い世代は、昔の世代ほど熱心にお祈りをしなくなったという。「イスラムは生活の全てを規定している。でも、その全てを守ることはとても難しいんだ。」
と私の友人も語った。1日5回のお祈りは、早いものだと朝の5時頃に始まる。
「起きられるわけない、俺は寝るのが大好きなんだ。」と私の友人。
それでも一日に1回のお祈りは欠かさないという彼。
「昔はお祈りをしなかったんだ。でも、お祈りをしたいという気持ちはあった。そこで母さんが、お祈りしたらテレビゲームしていいよ、っていう約束をしてくれた。それからお祈りをするようになって、今ではすっかり日課だから、お祈りしなかったら『しなきゃしなきゃ・・・。』っていう義務感がある。」
実際、旅行中彼が何度もソファに寝そべりながら
「あー、ねむてぇ・・・お祈りしなきゃー(涙)」
と半ばだるそうにいっていたのを覚えている。ついでに友人の弟はというと、友人がお祈りしているあいだに鼻歌歌いながら私の横で散歩してるので、「あれ、お祈りしなくていいの?」
と尋ねると、「あーうん。兄さんのほうがReligiousだからねー。」と言っていた。
このように、お祈り一つとってみても個人差が見受けられるらしい。
ちなみに、新学期になって新しくできたパレスチナ人の友人は毎日5回のお祈りを欠かさないし 「私の友達は1日に1回まとめてやってたよ笑」と話すと、彼はとても渋い顔をしていた。
また、弟の友人達にも、イスラムの教えにのっとってヒゲをがっつり生やしている人もいれば、弟のように少し残してイケてるかんじに剃っている人もいる。
このあたりも十人十色である。
しかし何より学んだのは、人があったかいということ。一人旅の予定だったイランでは、
「俺の友達んちいこうぜ。」
「次は俺の友達の妹んち。」
「俺んちもきてよーお」
みたいな調子で、
次々と色んなところに連れて行かれては
食べ物を出され、プレゼントをもらった。
道端で友達になった人の友達の家に3日間滞在したが、 親戚・職場仲間総出で 「みたそ!(※みさと。雰囲気は掴めてる。)We love you!」と歓迎され、 「えっ?!一人でいくの?!危ないだめだめ!」と我が子のように心配され、 果ては自分のことは棚に上げて 「道端で声かけてきたひとについていったらダメだからね。」 と忠告される始末。
パキスタンでも 行く先々でもてなされ、 「綺麗なスカーフだね!」とほめると、喜んでギフトとして差し出され、 (ぶるんぶるん首をふったがガンとしてあとに引かなかった。) 「パキスタン好きかい?」の言葉に「もちろん!」と答えると大喜びされる。 気を失い倒れたときは、見ず知らずの人々が全力で助けてくれた。
客人をもてなす、というのはイスラムの教えで、 私がこの旅でじんわりと身に染みて理解した部分でもある。
「イランとパキスタン行ってきた!」と報告すると、 「え?イスラムだよね?危なそう・・・。」と言われることは少なくなかった。
しかし、例えば日本語を話さないイラン人が日本にやってきたとして、 何人が手を差し伸べるだろうか。 何人が家へ招待し、もてなし、ギフトを贈るだろうか。
私たちはきっと知らないことで恐れているのであって、 行って自分の目で見て肌で感じて、気の置けない友人をつくって、 そうして見えてくるイスラムの姿は、きっと日本のメディアからは伝えられない。
イギリスのダラム大学で平和構築の修士課程修了後、パレスチナで活動するNGOでインターンをしています。”フツーな私が国連職員になるために。ギャップイヤー編”連載中。 [email protected]<⁄a>