2013年末に始まる、今回のウクライナ問題。ロシアに身を置き、ジャーナリズムを学び、初めて聴く現実、新しい見解や気づきが多々あった。一度で全てを語るにはあまりにも深く複雑なため、数回に分けてその様々な側面をお伝えをしたいと思う。今回は、ウクライナの人々が求めた「ヨーロッパ」とは何かを問う。
ヨーロッパ-それは一体何を意味するのだろうか。これは多義語であり、その響きの中には、いくつもの意味が込められている。
ウクライナの首都キエフの中央部に位置する独立広場。ここでは、2013年から2014年にかけて大規模な反政府デモが行われた。ウクライナ語で広場は「マイダン」と言い、また今回の一連のデモは、ウクライナ大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチによる、欧州連合協定調印の棚上げが契機となったことから、一般に「ユーロマイダン革命」と形容される。この広場では100名以上が命を落とし、その他多くの負傷者も出した。長年ヨーロッパ連合(以下EU)への加盟を試みてきたウクライナにとって、この協定への調印が大きな一歩となるはずであったが、おのおのの家族や生活のある人々が、「ヨーロッパ」のために命を落としたのである。(自国民意識の高いイギリス市民、一方EU帰属意識は5%以下)
ベルリンやパリ市民の人々が、果たして同じように、EUのために命を捧げることがあるだろうか。少なくとも、現在のEU圏内ではそのようなことは考えられないだろう。 それではキエフの人々が、広場に集まり、命を懸けてまで求めたのはどういう意味での「ヨーロッパ」だったのか。
ソ連崩壊に伴う独立後も、ウクライナは常にロシアの下にあった。ヨーロッパとの境界線には高いフェンスがそびえ立っており、居心地の良さそうな、進んだフェンスの向こう側の世界を志向しながらも、決してそちら側の仲間に加わることは許されてこなかった。「ヨーロッパ」とは夢の世界であり、より良い快適な生活を描いたおとぎ話だったのだ。このような閉ざされた環境の中で育った人々にとって、その言葉の意味するものは何よりもまず、個人の尊厳、人権尊重、自由や民主主義といったヨーロッパ的価値観であり、その全てが自分たちから取り上げられているものだった。
広場で人々が求めたものは、まさしくその「ヨーロッパ」であり、現実のEUではなく、単純により快適な、人間らしい生活だったのだ。「ヨーロッパ」やそれに代表される「民主主義」は、ウクライナ一般市民の人々の日常生活レベルにさえ希望を灯し、例えば彼らがヨーロッパ製品を購入する際は、それがより優れた品質であることに期待し、「ヨーロッパ水準」を目指して自分たちの生活スタイルを改変するのである。そしてこのヨーロッパのユートピア的イメージは、権威主義・共産主義といった、「悪」や「後進性」の兆しを見せて迫りくる、ロシアの反ユートピア的イメージによって強化されている。
だが、これらは所詮イメージに過ぎない。抗議者の大半の人々は、EU諸機関の仕組み、彼らが大統領に署名させようとしたEUとウクライナの連合協定の内容についてほとんど何も知らない。自分たちが加わりたいと思っている、「民主主義国家ヨーロッパ」で起こった近年の政治的事件、またはこのそれぞれの首都や最高権威者の名前さえ知らないのかもしれない。そして、おそらく彼らはなぜEUの内部に多くの反EU運動が存在するのか説明できないだろう。
もちろん、ヨーロッパの人々にとってのヨーロッパは全く違っている。内側から見たヨーロッパは、財政危機、各国家の負債や政治的腐敗といった問題を抱え、またアジアやアフリカからの移民で溢れている。ヨーロッパがそこに住む人々にとって共通の大きな住まいだという考え方に、その発案者たちは歓喜したが、その感覚は時を経て大きく変容した。ヨーロッパ内部では葛藤や分離が絶えず、息苦しさを感じている住人も少なくないだろう。 これに関して、あるロシア人作家が興味深いことを言っている。「大きな家」というものは、皆同じ道をたどる。新築祝いパーティーが終わると、少しずつ一体感を失くしていく。日常のいざこざやトラブルが原因で、近隣と仲良く暮らすことができなくなる。近所づきあいとはそういうもので、マンションの共有スペースを汚す人だとか、夜中に騒ぐ人だとか、家賃を滞納している人だとか、ずっと近所を見張っていてやたらとうるさく注意する人だとか、とにかくいろんな人がいて揉め事が絶えない。ヨーロッパも同じであろう。
前項にて、広場に集まった人々の目的はEUそれ自体ではなく、そこに彼らが描いている「ヨーロッパ的価値」だと記載した。2012年末に行われた、キエフ国際社会学研究所の調査結果がそれを証明しているので、その一部を紹介したい。
この調査によれば、ウクライナの人々の最大の関心事は、それが高い順に、食糧価格の高騰(58%)、公営住宅の料金(54%)、失業(34%)、給料・年金の遅配(32%)、汚職(27%)、犯罪(20%)であり、一方最も関心の低い事柄が、EUとの協力(3%)、隣国との領土問題(3%)、NATOとの協力(1%)であった。人々の関心にバラつきはあるものの、そのほとんどが社会経済的問題、彼らの市民的権利や福祉に関連することなのだ。つまるところ、独立後もソ連時代の社会問題を抱え続けるウクライナでは、EUは「ヨーロッパ的価値」を象徴するイメージ上の社会に過ぎず、そこに加われば、自分たちもより自由で、先進的、民主的な生活が送れる、と夢見ているだけなのかもしれない。EUへの加盟には、「財政赤字が対GDP比3%以下」という条件があるが、ウクライナの財政は、対GDP比4%台の赤字。実際にこれを3%以下に抑えようとすれば、公務員数の削減、公共料金値上げなど、ウクライナ国民が痛みに耐えなければならなくなる。(出典: http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2101J20140302)
また、こうしたイメージは、選挙前ともなれば様々な政治勢力、メディアによって頻繁に利用された。彼らは人々の生活や不満と向き合うことには興味がなく、専らイデオロギー的、地政学的問題に焦点を当て、「二つのウクライナ」というイメージを煽り、自らに支持を取り付けようとした。そこではいつも「ヨーロッパ対ロシア」、また「民主主義対共産主義」という形で選択肢が示され、ウクライナ国内の対立を助長させたのである。これらは誤った二項対立を生み、各国メディアでも、「西対東」の対立というイメージ一点ばかりが強調されるようになった。確かに、歴史的にポーランド時代が長い西部国境地帯では、一際ヨーロッパ志向が強く、ロシアとの経済的・軍事的結び付きが強く、ロシア語話者の多い東部地域では、ロシアへの帰属意識が高いのかもしれない。だが、今回の一連の問題を二項対立で片づけてしまうのは、あまりにも単純化しすぎており、思慮が足りない。
日本メディアにも度々登場するウクライナ人社会学者、ヴォロディミール・イシュチェンコ氏の言うように、「ユーロマイダンは、イメージを政治的争点に変化させた」のである。だが、根本的な解決を目指すのに、いつまでもイメージ上の対立ばかりを議論するのは、まさに机上の空論だ。「ロシア、あるいは共産主義とは何か」といったイメージを問うのではなく、「ウクライナの抗議者らが過去に葬り去り、解決を望む社会的課題は何か」といった実際問題を問うべきではないだろうか。また、「ヨーロッパ、民主主義的なものとは何か」ではなく、「抗議者がその獲得を望み、要求している権利や生活とは何か」を問うことにこそ、解決の糸口があるのではないかと思う。
サンクトペテルブルク大学(ロシア)のジャーナリズム学部、及び言語学部へ留学中です。様々な視点からの寄稿をしたいと思っておりますので、どうぞ、ご高覧くださいますと幸いです!