こんにちは!アメリカ・ジョージア州のジョージア大学でジャーナリズムを勉強しています、安西裕莉子(あんざいゆりこ)と申します。
「世界で活躍するジャーナリストになる」という夢のために「ジャーナリズムの本場アメリカで勉強してみよう!」と思い立ったのが留学のきっかけです。
アメリカで生活する中での日常の些細な現象から、その奥にある社会問題について考え、気づいたことを綴っていこうと思います。議論のある問題について、毎回なにか私なりの観点から問題提起や提唱をしていくつもりです。今回は、アメリカに根強く残る人種の問題について。
「ジョージア」といえば、日本コカ・コーラ社のジョージアコーヒーを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。正直なところ私もここに来る前は「ジョージア」といえば「コーヒー」というイメージしかありませんでした(笑)。でも、ここジョージア州ではジョージアコーヒーは一切販売されていません!実は「ジョージアコーヒー」という名前は、コカ・コーラ社の本拠地がジョージア州・アトランタにあることに由来しています。私を含め多くの日本人に「ジョージア」といえば「コーヒー」という強いイメージ付けをしてしまう、日本コカ・コーラ社の宣伝能力には脱帽してしまいますね。
さて、本当のところジョージアってどんなところなのか、簡単にご紹介します。ジョージア州はアメリカ南東部に位置し、1776年にアメリカ独立宣言をした13州のうちの1つに数えられます。コカ・コーラのほかにワールドニュースのCNNの本社があり、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した「キング牧師」ことマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの出身地であることでも有名です。アメリカの中で最も保守的な州のうちの1つと言われ、未だに根強い人種差別の意識が残っている現状もあります。バイブルベルトという敬虔なキリスト教信者が多い州のうちの1つにも数えられていますが、貧困問題や、売春がアメリカで最も多い州だという深刻な問題も抱えています。
アメリカはヨーロッパ系、アフリカ系、アジア系、ヒスパニックと、たくさんの人種が混在している「人種のるつぼ」だと言われますが、現実は人種による分離が根強いです。ダイニングホールや公共の学習スペースなど多くの場所で見かけるのは、白人(ヨーロッパ系アメリカ人)は白人同士、黒人(アフリカ系アメリカ人)は黒人同士、など、同じ人種の学生が集まって時間を過ごしている光景です。ハフィントンポストによると、アメリカに住む白人はその友人の91%が白人だという調査結果もあります(黒人の場合はその友人の83%が黒人)。白人、黒人だけではなく、アジア人、ヒスパニック、インド系アメリカ人も、同じ人種の人同士が集まっているのを頻繁に目にします。
アメリカに来て間もない頃は、こうした光景に違和感しか覚えませんでした。たくさんの人種が混在し多様性あふれる社会で、どうして人種によって人間関係が分離してしまうのか。そこにはアメリカ社会に根強く残る、深い人種の問題が隠れていたのです。
「誰も意図して自分と同じ人種の人を選んで友達になるわけではないよ」、クラスメートの白人のショーンが話してくれました。「誰でも自分と似てる人と一緒にいる方が落ち着くし、体質や趣味の違いによって関心も違ってくる。そうやって、結局はグループ化してしまうんじゃないかな」
確かに、共通の話題はある程度、見た目や体質の違いによって区別されてしまうのは本当です。例えば、黒人の髪質は私たちのものとは全く違い、自然と細かく巻いたような形になるのです。そのため、多くの黒人女性は髪を細かく編み込んだり、エクステンションを付けたり、ウィッグを付けたり、または短く切ったりしています。一方の白人女性は、その多くが長いブロンドの髪をなびかせています。髪質の違いによって、シャンプーも違ってきます。これらのひとつひとつから、黒人と白人の間で話題の違いも生み出されます。
また、ブラックミュージックという言葉を聞いたことがあるでしょうか。それは黒人発祥の音楽で、強いビート感、グルーヴ感を特徴としています。私のルームメイトは黒人ですが、聴く音楽といえばラップ調の曲が多いです。こうした嗜好の違いも話題の違いに反映されてきます。
しかし、こうした違いは個人的なもので、グループ化の根源的な理由とは言えません。髪質や音楽の趣味は同じ人種の間でも違ってきます。では、人種によるグループ化はどうして起こってしまうのか。私が思う最大の理由は、社会構造的に人種による区別が未だに根強く残っていることです。キャンパスにおいてそれを象徴しているのが「ソロリティ(Sorority)」と「フラタニティ(Fraternity)」です。
「ソロリティ」は女子学生、「フラタニティ」は男子学生の集まりで、社会貢献活動をしているものもあれば、パーティーに明け暮れるだけのものもあります。日本のサークルに近いイメージですが、「ソロリティ」と「フラタニティ」のほとんどはこれといった目的もなく、「ソロリティ」の場合は綺麗な女子学生が集まっておしゃれをして街に繰り出し、「フラタニティ」の場合は男らしい男子学生が一緒に飲み会をする、という感覚で、いわばお互いを高め合い一緒に過ごす友達づくりの場、と捉えることができます。「ソロリティ」「フラタニティ」内部は上下関係が激しく、立場が高い学生はソロリティハウス、フラタニティハウスに住むことができます。
加入には厳しい審査や一定の条件があり、毎年セメスターの始まりに「リクルート」という新しいメンバーを選抜する期間があります。「ソロリティ」と「フラタニティ」のほとんどは人種による区別をしています。友達づくりにおいて中心的な役割を果たす「ソロリティ」と「フラタニティ」における人種による区別は、学生の活動範囲も区別してしまいます。
莫大な人数を誇るジョージア大学では、学生は「ソロリティ」「フラタニティ」のコミュニティを中心として活動しています。「そうしたコミュニティがないと、多くの学生の中に埋もれて自分を見失ってしまう」、と社会貢献を積極的に行っているソロリティに属する友達が話してくれました。「ソロリティ」と「フラタニティ」は自分のアイデンティティを保つ1つの手段になっているのかもしれません。
「ソロリティ」と「フラタニティ」によって多くの学生は友達が選別されてしまう、それは得てして人種によって区別されていることが多い。私はそれ自体が悪いことだとは思いません。でも、「ソロリティ」と「フラタニティ」がキャンパスにおいて人種による区別がされる大きな理由であることに間違いありません。アメリカ人には未だに意識の中に人種による階級付けがされていて、黒人が入れない店もあるくらいです。そうした意識が残っている限り、みんなが平等な社会ではないと感じさせられます。意識的な問題を解決するのは途方もないですが、私たちのイメージとは違った、かなり保守的なアメリカの現状を目にして驚きました。日本人はアジア人として、中国人・韓国人・ベトナム人などと同じくくりで考えられます。そのなかで、どう自分を見出し表現していくのか。人種を超えて認められるだけの実力と実績がここでは必要です。私はアジア人としての誇りと客観性をもって、アメリカに向き合っていきたいです。
アメリカのジョージア大学に交換留学しています。日常の些細な現象から、その奥にある社会問題を考えていきます。