Remember History, but Don’t Get Trapped
歴史はそれから学ぶことはあっても、決してそれに囚われてはいけない
11月7日、外務省から「日中関係の改善に向けた話合い」が発表された。外務省によると「(日中)双方は,歴史を直視し,未来に向かうという精神に従い,両国関係に影響する政治的困難を克服する」ことで認識の一致をみた。戦後最も冷え込んでいると言われる今日の日中関係だが、双方の歩み寄りにより改善に向けて動き出そうとしている。
しかし、第二次世界大戦にまつわる日本と隣国との歴史認識の違いは、今日の外交関係に辛辣なひずみを生み出してきた。政府間だけではなく、各国民一人ひとりの隣国に対する個人的な感情のレベルにまで浸透していることも多い。こうした歴史認識問題について、日本にいてはなかなか真剣に考える機会が少ないのも現実だ。そこで日中間で大きな認識の相違がある南京大虐殺(南京事件)の経緯と惨状を展示した、南京大虐殺記念館(中国・南京)を訪問した。
訪問前は、自分が日本では触れることができない中国の南京事件に対する見方を知りたい、という素朴な思いを抱えていた。その背景には、筆者が今ジャーナリズムを勉強し、日本の教育や報道は偏っているという批判を多く目にしてきたことがあった。中国では事件についてどう伝えられているのか自分の目で見、肌で感じたかった。また、南京事件は過去にあったものなのだから、歴史を掘り返して議論するよりも、それを単なる過去の一事件として認識してしまうことで未来志向の外交関係も開けてくるのではないか、というある種の楽観視もあった。しかし今回の訪問では、こうした考えはやはり他人行儀すぎる、ということに直観的に気づかされた。
南京大虐殺記念館でまず目に入ってくるのは「遭難者300000(30万)人」の文字である。日本ではこの数字の真偽も問われている。しかし記念館内部にはそれを根拠づける大量の写真と書類の壁とともに、虐殺が行われた歴史的経緯も詳細に描かれていた。当時の日本兵がどれだけ非人道的で残虐なことを南京の人々に対して行ったのか、殺され方もこと細かに、写真と説明書き(中国語・英語・日本語)とともに展示されている記念館内。筆者にとっては自分が日本人であるという以上に、人間として非常にショッキングなものだった。これらをでっち上げだと揶揄する日本人もいるが、そこよりも、南京の人々がどういう思いでこれだけの展示をしているのか、何を伝えたいのか、を考えるべきだと思う。
一緒に記念館を回っていた中国人ガイドさんの言葉が今でも鮮明に思い出される。 「戦争中は、人間は人間ではなくなる。南京事件において日本人はある種のショーのように、残虐な見せつけをしたのだよ。でもそれは彼らが日本人だったからではない。悪いのは、人をそんな風に残酷にしてしまう社会なのだよ」
彼らが伝えたいのは、戦争はしてはいけないという、至ってシンプルなメッセージなのだ。非人道的な行為を細かく描写することで、見る人に戦争の残虐さを感じさせ、国というレベルではなく人間というレベルで、平和を愛し前に進んでいこうという考えである。歴史はそれから学ぶことはあっても、決してそれに囚われてはいけない。それは記念館の結びの言葉にも見られた。最後は希望に満ちた未来への展望で終わった記念館の訪問であった。
「中国人だから」とか「根拠がないから」といった先入観をもって歴史を見、それを今日にも持ち出すことでは問題は何も進展しない。だが一方で、歴史は歴史なのだから、とそれに向き合わないのも無責任だ。現代社会の思想や社会システムの根底にあるのは歴史に他ならないからである。歴史を持ち出す人を国籍や立場から表面的に排斥してしまうのではなく、その奥にある、何を伝えたいのか、というところまで、一人ひとりが寄り添って考えられたら、世界はどれほど良くなるだろう。解決の難しい歴史認識問題の将来を見た気がした。
アメリカのジョージア大学に交換留学しています。日常の些細な現象から、その奥にある社会問題を考えていきます。