皆さんは環境DNAという言葉を知っていますか?
近年、新型コロナウイルス(COVID19)の流行で「抗原検査」や「PCR検査(リアルタイムPCR)」など、生物学の用語が日常的な話題に登場するようになりました。
この記事を読んでいる方のうち、生物系の研究者を目指されている方は少ないと思いますが、今回は私が勉強している分野にも興味を持って欲しいと思い、現在注目されている「環境DNA」という技術について解説していきたいと思います。
タカノ(編集部・ライター)
北海道にいる生物好きの大学1年生。最近はチェロを弾くのに凝っているらしい。
まず簡単にDNAについて紹介します。DNAは「デオキシリボ核酸」という物質名で、主に生物の遺伝情報を記録する役割を担います。
構造としてはリン酸、デオキシリボース(糖)、塩基の3部分からなり、相補的に塩基が2つずつ結合する二重らせん構造をとっています。
また、DNAには塩基対の順番(塩基配列)が種間で異なる箇所があり、これがDNAを種特異的(*)な存在としています(生物種によってDNAは異なる)。この性質を利用し、ある生態系の環境内にどんな生物が住んでいるのか、ということを推測するのが、環境DNAを用いる考え方です。
*特異的・・・特別に他と異なる性質を持っていること
一般に、広い意味での環境DNAは「ある環境全体に存在するDNA」です。
では、生物の細胞の核内だけ存在するはずのDNAが、なぜ外部環境にあるのでしょうか?
その答えとしては、その環境に生きている動物たちの「排泄物」、魚の「鱗」、鳥の「羽」、哺乳類の「毛」や「皮膚」などが環境内に存在することが挙げられます。
糞にはもちろん動物が食べたものが含まれますが、その表面には糞を排泄した動物自身の腸内組織などが付着しています。このように、動物たちは生息地の環境にDNAを放出し続けているのです。
つまりは土、水、空気など、生物が存在するあらゆる環境に、そこに生息する生物たちのDNAは存在するのです。
ここで環境DNAという概念がどのように際立っているのかについてお話します。
まず、一般的な生物学の議論においては、「階層性」という考え方が重要です。
階層性とは「生態系、群集、個体群、個体、器官系、器官、組織、細胞、分子」(植物の場合、器官系はなく組織系が組織の前に入る)という生態系全体を構成する様々な役割をもつものの包含関係を示すものです。通常、ミクロ(下位階層:分子など)同士や、マクロ(上位階層:生態系など)同士のように、近くにいる階層同士のことが主に話題になります。
一方、環境DNAを用いた手法では、DNAという階層内の一番小さな階層に位置するものから直接最も大きい、個体群や環境の状態を推察することができます。
この階層を飛び越えた推察ができる点が、環境DNAの凄さと言えます。
環境DNAの手法には主に、「種特異的環境DNA」と「環境DNAメタバ―コーティング法」の2つがあります。それぞれについて解説していきます。
種特異的環境DNA手法はその名の通り、ある特定の種がその環境中に存在するかどうかを調べる、最も主要な環境DNA分析手法です。
この手法の対象となる種は主に外来種または希少種です。例えば希少種の存在を調べる場合これまでの手法では、実際に調査地でその種が採集によって捕獲されるかどうかで判断してきました。
しかしこの手法は、調査を行った人の採取の技量や、ただでさえ数の少ないこの種を捕獲できるかなどの要素に左右されてしまいます。そしてなにより、このような希少種は(多くの場合)貴重な環境に生息しており、こういった場に踏み込んで採集を行うことは環境保全の面で問題があります。
一方環境DNA手法では少量の水を採取してくるだけでその種の有無が分かります。環境DNA手法ははるかに環境に優しく、調査者にとっても非常に楽な手法なのです。
ここではまず、水圏における種特異的環境DNAについて考えます。その手順は主に3つに分けられます。
手順① 採水とプライマーの確定(手順②のPCRの開始に必要な”合成開始点”を決める)
↓
手順② PCR増幅(水中のゲノムの増幅を行います)
↓
手順③ 標的DNAの存在の有無の確認
まず、採水によって採水地の水と環境中に存在するDNAをどちらも採取します。
次に種に特異的(=その種類だけ判別できる)なプライマーを確定して利用します。プライマーとはDNAを増幅する際に発生起点として用いる数十塩基対程度の長さのDNA配列です。
これを用いてPCRサイクルを回しDNAを増幅します。ここでリアルタイムPCRや電気泳動を用いて種に特異的なDNA領域が増幅されているかどうかから、その生物種が採取地に生息していたかどうかが分かります。(厳密には採水の仕方によって結果が変わる可能性があるため同じ調査地でも複数回採集することで厳密性を担保します。)
環境DNAメタバーコーティング法とは、ある環境内に存在する多数種のDNAバーコードをまとめて同時並列的に決定する手法です。
多数種についてDNA分析をするといっても、鳥類、魚類や甲殻類といった、やや狭い分類群の同一群の生物種を調べることとなります。具体的には川や湖、海の特定の水域に存在するすべての魚種を判別することができます。この手法では、特定分類群に特異的なプライマー(= ユニバーサルプライマー)を用いることにより特定分類群に属する種のみのDNAを増幅することができます。
環境DNAメタバーコーティング法の手順は主に3つに分けられます。
手順① 採水とプライマーの確定
↓
手順② PCR増幅
↓
手順③ DNA配列解析
先ほどの種特異的環境DNA手法と同様、まず少量の採取水からDNAをPCR増幅します。その後メタバ―コーティングと呼ばれるDNAシークエンサー(DNAの塩基配列を網羅的に解析できる装置)を用いて、ユニバーサルプライマーが増幅したDNAの塩基配列を網羅的に解析し、そのDNAが「何の生物種のDNAなのか」を判明させます。
最後に、広義の環境DNA利用法である「環境水を用いた疫学調査」について紹介します。
その代表的な調査方法である「下水サーベイランス」は、2020年から感染が拡大した新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染者数の推定に利用されました。
新型コロナウイルスは呼吸器系の疾患を引き起こすウイルスではあるものの、腸管でも増殖し、ウイルスは糞便としても排出されます。そのため感染者がいる区域の下水には、新型コロナウイルス由来のDNAが含まれています。
ここで利用されるのが、下水サーベイランスです。下水サーベイランスとは、下水中の病原性微生物を測定して疾病の発生・流行を把握する疫学調査手法です。この手法を用いれば、地域毎の感染者の有無を定性的に示すことができます。このような下水を環境水として、その中に含まれるゲノムを検出して疫学調査に用いる手法はポリオの対策にも使われてきました。
コロナ禍において全国の主要都市の地方公共団体が新型コロナウイルスの下水サーベイランスを行い、下水中SARS-CoV-2濃度は感染者数の増減との間に相関が認められました。
この下水サーベイランスの手法は感染者の定性的な把握には有効ですが、ウイルスゲノム量から直接詳細な感染者数を割り出すには至っていないの今後の研究が待たれますが、様々な疫病の感染探知やそれに基づいた感染対策に応用ができるようになります。
下のリンクから、札幌市の新型コロナウイルスとインフルエンザウイルスの下水サーベイランスの結果を紹介します。皆さんのお住いの市でも同様の分析結果を発表している場合があります。ぜひ検索してみてください!
札幌市の新型コロナウイルス感染症の市内発生状況 下水サーベイランス
今回は最新の研究手法である環境DNAの概念とその利用法について解説をしました。
環境DNAは「環境中に存在するDNAの総称」であり、これを増幅することにより特定の生物種がその環境に存在するか(種特異的環境DNA手法)やその環境内にどのような生物種が存在するか(環境DNAメタバ―コーティング法)を調べることができます。
ほんの少しの水から生物種が同定できるこの環境DNA手法は今後の自然科学の分野に大いに役立ちます。
また、下水サーベイランスの分析はウィズコロナ時代において定性的に大まかな感染者を把握することができます。21世紀は分子生物学が大いに発展している時代ですが、これからはDNAなど分子レベルのミクロのものを利用して、生態系や、はたまた社会といったマクロな動きを見れるようになってきています。今後も比較的新しい生物学のテーマを扱っていこうと思います。
参考文献
環境にはDNAが溢れている特集『環境DNA 生態系に描かれた生き物たちの航跡をたどって』【環境問題基礎知識】安藤温子 国立環境研究所 2019年
公開日:2023-08-29