はじめまして。 栃木生まれ東京育ち、大学1年生の伊集院熙と申します。
このたび、Co-mediaにて記事を書かせてもらう機会を頂くことになりました。 経験してきたこと、考えたことを中心に幅広くわかりやすく書くことをモットーにお伝えできればと考えております。初回の今回は、自己紹介を踏まえて高校生時代に東日本大震災の被災地に派遣された経験を中心に書きたいと思います。
2015夏 撮影 宮城県南三陸町
私が所属していた学校は「社会的起業」をテーマに生徒が一年間、東日本大震災の被災地の復興支援を目的として高校生が企業を運営する機会がありました。
企業活動の内容は被災地の物産をイベントで販売して、その収益で被災地の復興イベントを開くというもの。顧問をしてくれた先生から「一度被災地を見ておいた方が良い」と言われ、夏休みを利用して民間の団体型の被災地ボランティアツアーに参加しました。
夜行バスでの移動という事情もあり、被災地である宮城県南三陸町に到着したのはまだ早朝のことでした。私たち一行はまだはっきり覚めない頭のままバスの外に足を踏み出しました。そして周りを見て驚きます。辺り一面に土の山が広がっている他は何もなかったのです。
聞けば津波によってできたガレキを撤去するのに時間がかかり、ようやくそれが終わったので津波対策のために地盤のかさ上げを行っているのだといいます。
このとき震災からすでに4年が経過していました。私は東京にいる間に、もっと復興が進んでいると思ってしまっていたようで、復興の難しさと津波の恐ろしさを身に染みて感じることになりました。
またすぐ近くには南三陸町防災対策庁舎があり、ここでは43名もの尊い命が失われたということでした。
次に向かった宮城県気仙沼市では町のあちこちにたくさんの仮設住宅があり、学校によっては他校のグラウンドにプレハブを建て、そこで授業をしていました。(この状況は2017年現在も続いているそうです)
プレハブ校舎には耐久性に寿命がある他、どうしても正規の建物と比べると様々なデメリットがあります。快適とはいえない環境の中で日々の勉学に励んでいる生徒を見て一日も早く本校舎の債権が必要だと感じました。隣接する岩手県陸前高田市も被害はの大きい地域。震災を風化させないために数多くの被災した建物が残され、店の看板標識の上まで津波が来たことを示す札や、建物に車が刺さっているという嘘のような現実の風景を物語っていました。
2015年夏 岩手県陸前高田市
被災地の方々は私達の訪問を歓迎してくれました。被災者の方の中には復興への意気込みを力強く語る方もいる一方で「我々は忘れられているのではないか」「町がこのまま消滅するのではないか」とおっしゃる方もいました。中には東京から私達がわざわざ来てくれたと言って涙を流す方さえいました。私は今でもその姿が忘れられません。
その後東京に帰ってから高校生企業の活動を続け、様々なイベントで物産の販売をし、何とか最終イベントの資金を捻出。無事にイベントを成功させることができました。
しかし、活動の中で震災の風化や無関心に多く直面したことも事実で自分の無力さを感じました。あれから更に2年たった今、震災の風化は進んだ一方で今なお東北の復興はまだ道半ばです。
巷には最近「日本に生まれて良かった」とか「クールジャパン」「愛国心」「一億総活躍」「2020オリンピック」だとか「日本」を意識させる言葉があふれています。私はそういう言葉を聞くとその中に本当に被災地は含まれているのかと考えてしまいます。
東日本大震災は我々日本国のできごとです。同じ国民として後世へ語り継ぐことなのではないでしょうか。
苦しんでいる人々に手を差し伸べ、共に暮らして行ける、そんな日本でありたいと思いました。