studio AFTERMODE所属のフォトジャーナリスト,安田菜津紀さん。
現在、カンボジアをはじめ、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の中に在る生と死の循環、その背景にある社会問題を写真に収め続けている。
彼女は東日本大震災の地震や津波を実際に経験した訳ではない。しかし、現地を訪れた際の出会いが、彼女にとっての「写真」そのものの意味を変えた。
写真を通して人の心と向き合い、ゆっくりと対話を重ねていく。今、写真は彼女にとってどんな意味を持つのだろうか…。
彼女は高校二年生の頃、「『国境なき子どもたち』友情のレポーター」としてカンボジアを訪れ、貧困家庭に生まれ、人身売買や虐待を受けてきた“トラフィックト・チルドレン”と呼ばれる同世代の人たちと出会った。
国も、言葉も、境遇も違うけれど、同じ時間と空間を共有することで“外国の社会問題の被害者”という漠然とした距離感から日本人となんら変わりない“一人の友人”としての関係性が少しずつ結ばれ、いつしか友人が抱えている問題として“私にできることはないだろうか”という想いが彼女の心に芽生えていった。
しかし、高校二年生だった当時は財力があるわけでもなく、毎日ご飯をお腹いっぱい食べさせてあげることもできない。怪我や病気を治療する技術力もない。それでも“何とかしたい”という切なる想いが彼女を突き動かしていった。
「そうだ。自分が感じたカンボジアを少しでも多くの人たちと共有しよう」
問題に触れる機会がなければ、“問題”として認識されず、まるで“無いもの”として見過ごされてしまう。それが、たとえ誰かの命の危機に迫る問題であっても…。
だからこそ、一人でも多くの人たちが当事者の“声”に触れられるように、自分が拡声器となって問題の存在を認識する人を増やすことから始めようと思い立った。それが彼女の「想いを届ける」という“発信”の出発点だ。
帰国後、専門家ではなく、カンボジアの当事者たちと同世代の、一人の高校生の言葉として「発信」を出来そうな場所を手探りで探した。しかしやっとの思いで得た執筆の機会も、続けるうちに葛藤を持つようになった。一番知って欲しい同世代には届いていないのではないか。
社会問題を取り上げる専門誌でチャンスを得たものの、結局は既に“問題”を問題として認識している人にしか届かない。
“どんな方法なら、関心のない同世代にカンボジアの姿を届けられるだろう”
「えっ、これって何の写真なの?」
たまたま学校で見せたカンボジアの写真に友人たちが反応した。
直感した。“これかもしれない!!”
今、安田さんは写真を“0を1に変えてくれるもの”と語る。
「0に0を掛けても何も生まれないけれど、1になればどんどん数字を掛けて、知りたいという扉を築いてくれる」
目にしたその一瞬に、“これは何だろう…”と一歩、心が近づく。問題に心が向かうための最初のきっかけが写真であり、もっともっと知りたいという想いを掻き立ててくれるのだと、安田さんは写真の可能性を語った。
そんな彼女に写真の力を確信させた展覧会があった。大学生の時に訪れた、紛争地の様子やそこに生きる人たちの姿を映し出した写真展。一枚一枚の写真が会場をゆっくりと現地へ引き寄せていく。
ある写真を前に身体も心も捕らわれる初めての感覚に襲われた。アンゴラの難民キャンプで我が子に母乳を飲ませる痩せ細った母親。絶望的な状況でも“子どもを守り抜きたい”という母親の切なる想いが瞳の強さに宿っていた。“自分以外に守れるものを持っている人の強さ”がカンボジアの子どもたちの瞳の強さとリンクし、高校の時にカンボジアで感じたものが一気に全身に蘇った。
「一枚の写真でこんなにも胸が締め付けられ、人の心を何年も掴み続けるなんて…」と当時の衝撃を振り返る。
彼女自身が、写真の魅力に吸い寄せられた瞬間だった。
それからというもの、彼女は日本人が身近に感じにくいシリアの難民キャンプやウガンダのエイズ孤児に寄り添い、一瞬のエネルギーを写真に収め、その生気を帯びた写真で「背景にある問題を一緒に考えよう」と種まきをしてきた。
そんな活動の中で突如訪れた2011年3月11日の東日本大震災は、日本中の誰もが知っている出来事だった。
「わざわざ写真を撮る意味はあるのだろうか・・・」
フォトジャーナリストとして、一人の人間として、ふつふつと沸き上がってくる想いを整理できないまま、義理の父母が身を置いていた岩手県陸前高田に向かった。
壊滅的な景色と人の生死が身近に迫ってくる陸前高田で、カンボジアで味わった想いに似た絶望感に襲われ、彼女は「シャッターを切ることができなかった」と語る。
陸前高田で写真を撮っても、避難所で生活されている人々のお腹を満たすことはできない。被災財の片づけや復興に直接的に繋がるものでもない。
さらに、シャッターを切れなかった根底にある大きな壁。それは、被災された人々を労る想いと共に、自分が傷つきたくないという自衛の想いだった。甚大な被害を前にして、“こんな時になに写真を撮っているんだ。撮らないでよ”と、写真を撮ることで被災された人々を余計に傷つけてしまうかもしれない。一方で、被災された人々のあまりに深い怒りと悲しみに触れることを避けたい、自分が傷つきたくないという想いがあった。
この二つの心の葛藤がシャッターを切ろうとする手を止めてしまったと言う。
そんな彼女を変えたのは、仮設住宅で自治会長をされている佐藤一男さんとの出会いだった。
「記録する人間ならば、あの震災直後だからこそ、シャッターを切ってほしかった」
写真は記録である。
撮る意味はあるのか、自分を守るために撮らないことはフォトジャーナリストのあるべき姿なのか、自分自身を傷つけてしまう恐怖に耐えられるのか…
佐藤さんの言葉は、この葛藤の答えを見つけるきっかけをくれた重い一言だった。
佐藤さんは防災士として、震災の教訓と町や人々の変わりゆく姿を語り続けている。月日を重ねるごとに、盛り土や防波堤の工事が進み、一日一日、町の表情が変わっていく陸前高田。震災直後のあの景色から少しずつ町が前進していることへの期待を抱きつつも、当時の記憶が薄れてしまうのではないかという不安を抱えていた。
津波の高さはどのくらいあっただろうか…
被災財が山積みになっていたあの景色は…
そこからどうやって生き抜いてきたのか…
震災を経験した当事者にとって、それは忘れたくても忘れられない出来事である一方で、「このままでは震災を経験していない次世代に教訓が伝わらないかもしれない」と懸念していた。
同じ悲劇を繰り返さないためにも、陸前高田のあの“一瞬”を写真に刻んで記録する必要があったと、佐藤さんは語る。
「起きていることを“今”に伝えるだけでなく、未来に手紙を綴るように写真を残していかなければならない」
写真のもう一つの役割を痛感し、そして見つけた。
シャッターを切る瞬間に感じる“今”の葛藤や後ろめたさと向き合いながら、決して逃げないという答えを。
もう一つ、安田さんに記録としての写真の役割を教えてくれたのは、出会った直後には向き合えずにいた被災者の方々だった。
震災で亡くなった大切な人に「写真の中でいいから、せめて会いたい」と願う彼ら。写真は、生と死を越えて亡くなった人に会える唯一の“窓”になる。心の中で対話するための愛しい瞬間を与えてくれる。たった一瞬を切り取ったものだけれど、何度も何度もあの一瞬と向き合い直す瞬間を作ってくれる。
「写真がある限り過去にはならない。今に繋がっている連続した“一瞬”になるんです」
そう優しくつぶやいた。
安田さんは、憎しみじゃない新たな選択肢を生み出す“場づくり”をしていきたいと、これからの生き方を語ってくれた。
これまで日本から遠く離れた地で起きている“争い”や“貧困”の中にある人の姿をファインダー越しに捉えてきた安田さん。今後は日本で、東日本大震災を経験していない子どもたちに、どうやって震災の記憶を未来に手渡していけるだろうかを考えていくという。中でも今は、「写真絵本」を通して、大人と子どもが同じものを使って感性を分かち合い、想いと記憶を手渡していけるものを生み出していきたいと語る。
「一滴の水滴が遠くまで波紋を作り、ゆっくりと想いが伝わっていくように、長い時間軸で丁寧に、丁寧に想いを手渡していきたい」
ふと、「写真ってなんだろうね」と照れ臭そうにつぶやいた。
時々で答えが更新されていくその問いに永遠の鼓動を感じ、新たな答えの可能性を探していく。
これまでの歩みを振り返った安田さんに、自分自身に向けてメッセージを書いて頂いた。
「心のお陽さまで、温かさを分かち合い続けること」
私の言葉や写真に触れた人が「明日も生きていたい」と思えるような温かみを帯びた“表現”をする。
写真をまだ始めたばかりの学生時代にお世話になった方から最初に頂いた言葉を、今でも、これからもモットーとして常に意識していくのだと語ってくれた。
安田さんの心に宿る“お陽さま”が、どうか笑顔でありますように、
そして、より多くの人々に安田さんの温もりが行き届きますようにと願いを込めて。
中高生向けのブックレットが、2月23日に刊行予定です!!
福島県泉崎村出身。宇都宮大学国際学部4年。東日本大震災後、「言葉」を通して変わるきっかけを頂いた私が次に出来ること。それは、震災後に出会った多彩な「生き方」を言葉で紡ぎ、震災と向き合い、懸命に闘い続けている人々へ「生きる力」をプレゼントすること。あなたの「生き方」が、誰かの「生きる力」へ繋がるような、鼓動の連鎖をもたらす記事をプレゼントしていきたいと思います。