これは、何の前触れもなく、母が突然私に語りかけた言葉です。 「血が繋がっていない」ということは一体どういうことであり、何を意味しているのか。毎日、共に生活している、「お父さんだと思っていた人」は誰なのだろうか。当時10歳だった私は、自分の置かれている状況が理解できず、すぐに言葉を発することができませんでした。
初めまして!慶應義塾大学法学部2年生の糸賀 貴優(いとが きゆう)と申します!
変わった名前でびっくりしている方も多いですよね。そんなことよりこの記事の題名にびっくりしとるわ!って感じですよね、驚かせてしまい、スミマセン。
まずは私の出自について書かせていただきます。私の母は、私の物心がつく前から離婚と再婚を経験をし、私は再婚相手の養女となりました。それから10歳になるまでの8年間、私は本当の父親の存在を知らずに、実の母と養父の下で育てられてきたのです。
そして、上記の状況の通り、私は母からいきなりのカミングアウトを受けました。(母が私の出自を伝えようと思ったきっかけについては後々書かせていただきます。)当時、小学4年生の私の脳ではなかなか理解できない衝撃的な内容を聞き、ひどく動揺したのを覚えています。 「血が繋がっていない父親」とは一体何なのか。
今一緒に住んでいる父親は、「私の父親」ではないのか。
その日は混乱したまま、気持ちの整理がつかずに2時間ほど泣いていました。しかし、養父と私に血縁関係はないという事実に対して泣きじゃくったのはこの日限りです。
このことをきっかけに、「自分にとっての家族とは何か」について、幼いながらも毎日考えるようになりました。私が小学生だったということもありますが、当時は「離婚」「連れ子」という言葉が今以上にネガティブな意味として捉えられることがほとんどだったように思います。
「血が繋がっていない養父は、本当のお父さんではないのだろうか?」
この問いを頭に思い浮かべる度に、うっすらと感じる世間の目と自身の気持ちとの間で繰り返し葛藤が生じました。しかし、その葛藤の着地点は毎回同じでした。
「養父は、紛れもなく私の父親である。」
確かに私の体にお父さんの血は流れていない。でも、家族で過ごした思い出を振り返ると、そこにいる優しい男性は確かに私の大好きなお父さんであり、私に愛情を注ぎ続けてくれているお父さんは、今一緒に住んでいるこの人以外にはいないのだと思うのです。
以上より、私は自身の経験から、「家族とは、血縁関係だけでなく、愛情や信頼関係によって人間関係が構築される」と断言できます。家族になるにおいて、血縁関係とは、必ずしも必要な要素ではないのだと思います。
世の中には、STEPファミリー、シングルマザー(ファザー)、養子縁組、事実婚、同性婚等、様々な「家族のかたち」が存在しています。私は「家族の多様性」がより一層世間に広まり、寛容な社会へと変化を遂げ、一人一人が自分の家族を愛することができる世の中になれたら素敵だと思います。
また、私は日本における子どもに貧困について興味・関心があるので、それにまつわる社会問題についても書けたらと思っています。この記事をきっかけに、自分にとっての家族について考えていただけたら嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
慶應義塾大学法学部に在学中です。名前は「きゆう」と読みます、純ジャパです。幼少期は日頃から「私にとっての家族とはなんだろう」と考えているような子でした。子どもの貧困と家族の多様性に興味があります。