こんにちは、木々の装いが赤に黄色におしゃれに染まり始めた今日この頃、イギリスからお届けします、Misatoです(^-^)
今日は、平和構築という私が勉強している得体の知れない学問についてできるたけ平易に紹介するとともに、平和構築という学問に対して感じるジレンマについてもお伝えしたいと思います。
Peacebuildingとは、簡単にいえば紛争が終わったあとの国やコミュニティでどうやって平和を再建するかという学問です。
さて、紛争後社会に必要なものとはなんでしょうか。
紛争がまだ終わっていなければそれこそ和平合意を結ぶ(peacemaking)必要がありますし、和平合意が結ばれた後もその秩序を維持する(peacekeeping)ために軍隊が必要かもしれません。
もちろん人々は食べるものもろくに手に入りませんから食料援助を行う必要もあります。
これらの短期的な支援はもちろんですが、平和構築で重要なポイントは、それらだけではなく紛争の根本的な原因にアプローチすることです。
紛争の根本的な原因とはなんでしょうか?
例えば貧困、民主的な政治制度の欠落、法制度の未整備かもしれませんし、産業の発展が遅れているために雇用が少なく失業率が高いのかもしれません。
そもそも内戦を経験した人々が互いに憎み合っており、いつでも紛争に逆戻りしてしまう状態なのかもしれません。
これらの根本的な原因にアプローチしなければ、仕事がなく兵士に志願する若い男性が跡を絶たないこと、また平和的な紛争解決システムが無いからこそ武力でものごとを解決してしまうといった問題はいつまでたっても消えないでしょう。
人道援助や軍隊による治安維持など応急処置的な措置にとどまらず、構造的な問題解決をめざすことこそが平和構築と言えます。
以下、イメージが湧きやすいように、以下平和構築が扱うイシューを列挙してみたいとおもいます。
2.政治制度 3.社会経済基盤 4.和解促進
・軍隊や民兵組織に対する武装解除、動員解除、元軍人の社会統合
・治安維持のための警察組織整備
・民主的かつ透明な政治制度の確立
・法による支配の確立
・インフラの復興・整備
・難民の帰還促進
・コミュニティ間の草の根レベルの対話促進
・トラウマヒーリング
平和構築という学問ですが、ダラム大学ではMSc Conflict Prevention and Peacebuildingというコースで学ぶことができますが、そのほかブラッドフォード大学、マンチェスター大学、ランカスター大学、リーズ大学、オスロ大学、などにも関連するコースが設置されているようです。
この平和構築という学問をイギリスで学ぶにあたって、わたしは驚きを通り越して怒りすら感じた瞬間が何度かあります。
“What are the causes of conflicts?”
という内容の授業を受けたときのことです。
授業の要旨としては、「冷戦以降の紛争のほとんどは、アフリカ・アジアを中心とするいわゆる発展途上国で起きている。以前は、彼らが生物学的に野蛮であるという主張がなされていたが、そうではなく、政治(民主主義の欠如)・経済(格差)・文化(民族間の歴史的対立)などに基づく構造的な問題のためである。」というような話でした
国家として十分に機能せずに紛争を抱えている国は、「Failing states」つまり破綻国家と呼ばれています。
いや、すごく冷静で客観的に分析していますが、イギリスの大学院でこんな話されるとなんだか…
「え?悪いん自分やん?」
というツッコミが、授業中何度も繰り返し脳内でテロップとして現れては消えました。
※関西では“自分”は二人称、この文脈ではイギリスの意味。
アフリカが最も極端なケースなのでアフリカを例にします。
この21世紀にアフリカがたくさんの紛争を抱えているのは冷静に考えれば至極当然のことです。
16世紀に奴隷制のために沿岸部の国々は統治構造をことごとく破壊されています。
しかも奴隷制が公式に終わったのって19世紀です。人間がほかの人間を奴隷として、モノとして扱っていた時期って、意外と最近のことだと思いませんか?
そのあと植民地主義が始まり、徹底的に植民地宗主国の発展のために搾取され、これまた100年ほど続きます。
アフリカ諸国が独立したのは、国によってばらばらですがざっくりいえば1960年代、つまり多くの国は独立してからまだ約60年しかたってないわけです。
しかもいま私たちが当たり前のものとして受け入れている“国民国家”という制度はアフリカの土着の制度でもなんでもなく、西欧諸国が決めたルールを押し付けられた形で多様な民族がひとつの“国境線”に閉じ込められることになったわけです。
ルワンダのジェノサイドに有名なように、元々あまり明確でなかった民族間の区別が、入植者の都合のために強調され、その後の紛争につながるケースも希ではありません。
また、民主主義の構築にはお金が必要ですが、植民地主義政策の上に経済発展を遂げた現在の西欧諸国と違って、21世紀の国家は人権を擁護しつつ経済発展を成し遂げなければなりませんから、なかなか大変なことです。
しかも植民地時代のモノカルチャー経済によって、特定の一次産品しか生産できないような状況に陥っている場合も多くあります。
日本で勉強してきた私にとっては、21世紀現在起きている紛争の原因はどう考えても植民地宗主国のせいであるのに、どうやらそれはイギリスの「平和構築」の常識ではないようでした。
授業中、「アフリカに紛争が多いのは彼らが生物学的に野蛮だから、黒人だから、ではない」と教授ははっきり言っておりました。
それは果たして、アフリカ出身の学生がいるクラスルームで発するのに適切な言葉でしょうか。
どう考えても植民地宗主国の政策が今日の紛争に多大な不の影響を及ぼしているというのに、植民地宗主国としての責任を棚に上げて一言も触れず、「彼らが生物学的に野蛮だからではない」と、そんな可能性を論じることすら、耳を疑いたくなるような話です。
授業終わり、ナイジェリア出身のクラスメートにこの違和感や怒りを話したところ、彼も同じような気持ちで授業を聞いていたとうなずいていました。
「こうやって非ヨーロッパの生徒が、ヨーロッパで『紛争の原因は構造的なものなんだ。』という授業を受けていることも、現代の植民地主義なのかもしれないね。」という彼の言葉の重みがずしんと胸に響き、今も消えません。
「Failed statesなんて呼ぶのがそもそも失礼でしょ。誰のせいやと思ってるねん...」と、彼に話しながら、あれが私のクラスルームの中の常識で、きっとそのまま私が将来出て行こうとしている“国際社会”の常識でもあって、私がどんなに心で怒っていてもあんな狭いクラスルームの常識すら変えられないという事実に、とてつもなく腹が立って、なんだか悔しくて、なぜか涙が出そうになりました。
思い出されるのは一番最初の授業。
早めに教室につき、もちろん一番前の席を確保して、始まるのを今か今かと待ちながら、そしてわくわくで胸をはずませながら臨んだ初めての授業でした。
その初めての授業で、教授は平和構築の成り立ちについて、このように言い放ちました。
「今日、グローバル化の影響により、破綻国家から発せられる脅威は国内や近隣諸国にとどめておくことができず、テロや疫病などの形で我々の世界の平和と安全も脅かすようになった。我々が多大なコストを平和構築に払うのはこのためである。」
この、平和構築という学問の根底に通ずる大前提は、”世界で一番困っている人のために働く”というモットーをもってイギリスまできてみた私にとっては、悲しい衝撃でした。
安全保障専攻の読者がいたら笑うかもしれませんが、人が理不尽に死んでいくのがおかしいから平和構築しましょうって、ほかの学生だってそんなシンプルな理由で平和構築を学びに来ていると思っていたのです。
しかし、蓋を開けてみれば、クラスメイトのほとんどは私の属する"Peacebuilding and Conflict Prevention”コースではなく、”Defence, Development, Diplomacy”コースに属しており、防衛省やNATO、軍隊などのキャリアを目指す、もしくはバックグラウンドを持つ学生がほとんどでした。
「今日の安全保障のためには、軍事的アプローチだけではなく政治、経済、司法など包括的な取り組みが必要だからね」
と語るアメリカ出身の学生もいましたが、結局自国の安全のための平和構築であって途上国で誰かが死んでいくことは第一義的な理由ではないようでした。
授業の初日から、プログラムの根底に通ずる価値観に対して失望してしまった一方、自分がどうしようもなく考えの甘い場違いな存在のような気がして、なんとも言えない沈んだ気持ちでした。
日本の平和構築分野で著名な篠田英朗先生が、著書の“平和構築入門”の中で以下のように平和構築を定義しております。
「平和構築活動とは、普遍的な国際社会が、真に普遍的なものとして自らを確立していくために、異質で適合しきれていない構成要素を同化していく作業なのである。」
この一文はとても本質的な平和構築のジレンマに通じるような気がします。
「民主主義」「法の支配」「人権」「資本主義経済」
こういったいわゆる西欧に端を発する価値観とそれに基づく統治制度を世界中の国々に適用させ、統一的なルールのもとに秩序形成を測ることが平和構築なら、平和構築とは、世界に偏在する多様な人間社会に一面的な価値観の押し付けを行っているのではないかというジレンマを拭うことができません。
多様な文化の存在を受け入れず、先進諸国の既存のカタチをありとあらゆる社会に適用しようとする、そんな世界の画一化の一端を、平和構築が担っているような気がしてならないのす。
そしてそのおごりこそが、今日の紛争の根本的な原因を作り出しているような気がしてならないのです。
私がいるべき場所はここでいいんだろうか。
ここで学ぶことが本当にpeacebuilderになるために役に立つのか。
クラスメイトがもっている価値観や、プログラム全体に通じる価値観が、自分のものとかけ離れている気がして、孤立しているような感覚に襲われたり、モヤモヤしたりする日々が続きました。
ついに教授に訴えに行くお話は、次回に続きます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
イギリスのダラム大学で平和構築の修士課程修了後、パレスチナで活動するNGOでインターンをしています。”フツーな私が国連職員になるために。ギャップイヤー編”連載中。 Twitter@Misato04943248<⁄a>