皆さん、はじめまして。宇都宮大学国際学部4年の緑川沙智と申します。
私は10月から半年間、休学という道を選び、災害ボランティア活動をはじめ、災害時に開設される避難所の質の向上や「災害弱者」が生まれてしまう社会的構造の問題の研究を行っています。この活動を行っていく中で、学んだことや感じ取ったこと、そして皆さんに少しでも「生きる栄養」をお裾分けできるように、一つひとつの「想い」を、丁寧に言葉に紡いでいきたいと思います。
初投稿となる今回は、私がなぜ記事を発信しようと決心したのか、その「きっかけ」を皆さんにお届けしたいと思います。
記事を書こうと思い立った原点となる出来事は東日本大震災でした。
当時、高校一年生だった私は、福島県南部で被災しました。幸いにも、地震による揺れと断水という比較的軽度な被災で、私をはじめ、家族の命に別状はありませんでした。
震災時の過度な危機感が解けて「命が助かった」という安堵に包まれる一方で、地震と、津波と、福島第一原子力発電所事故と…、次々と迫りくる脅威によって変わり果てていく故郷の「福島」の姿をテレビで見るたびに、「どうして、こんなにも多くの命が奪われてしまったのか」と何度も自問自答をしていました。
私の「命」は救われたけれど、静かな怒りと恐怖と悲しみに、心の傷は無意識のうちに深くなっていく。それが当時の私の「被災」であり、これ以降、「被災者」という視点でしか「福島」と向き合うことができず、「何か力になりたい」という想いも芽生えてきませんでした。
「被災者」という殻に覆われた私に温かな陽を差し込んでくれたのが、進学先の桜の聖母短期大学で出会った「福島学」でした。
この学問では、原発事故後、放射能汚染と風評被害に直面している農家の方とともに、愛情を注いで育てた野菜や果物の安全性をどのように発信することができるかという観点から商品開発に取り組みました。
この活動を行う中で、被災者の心底にある悲しみと怒りに初めて触れたとき、テレビを通して受けた間接的な私の「被災」と農家の方の直接的な「被災」が現実のものとなって繋がり、自然と涙が溢れてきました。
まるで死に近い状況下でも、懸命に生き抜く農家の方が私たちに詩をプレゼントしてくれました。その詩はこの言葉から始まります。
「あきらめないことにしたの」
この言葉を受け取ったとき、心から「私に何かできることはないのか」という想いが涙とともに溢れ出しました。
この出会いが、私を「被災者」から「協働者」へと成長させてくれた大切なきっかけとなります。
東日本大震災での私自身の変化をきっかけに、岩手県や宮城県をはじめ、関東・東北豪雨や熊本地震、台風10号での災害ボランティアや復興支援、防災イベントなど、自然災害から生じた問題に自ら足を踏み入れ、災害後の緊急期から復興期に渡る活動に携わってきました。この多彩な活動のなかで、さまざまな「学び」や「出会い」、そして震災後の「想い」に触れてきました。
失ったものと真摯に向き合い、懸命に闘い続けている人々
震災後の新たな「気づき」を自分の人生や地域に落とし込み、再スタートを切っている人々
そこには、十人十色の震災後の「生き方」があります。
私が「言葉」を通して、変わるきっかけや勇気を頂いたように、この震災後の多彩な「生き方」を言葉で紡ぎ、「生きる力を貰いたい」、「何か活動したい」と震災と懸命に向き合い、一歩踏み出そうとしている人々へ届けたい。あなたの「生き方」が、誰かの「生きる力」に繋がるような、鼓動の連鎖を感じる記事を執筆したい。そして、もうこれ以上、助かった命が絶たれてしまわぬように、微力ながら「生きる力」を、皆さんにプレゼントしていきたいと思い、記事を発信していこうと決心しました。
言葉は生きる栄養になります。心の休まる一時になるような記事をお届けしたいと思っていますので、ちらっとのぞきに来てくださいね。お待ちしております。
福島県泉崎村出身。宇都宮大学国際学部4年。東日本大震災後、「言葉」を通して変わるきっかけを頂いた私が次に出来ること。それは、震災後に出会った多彩な「生き方」を言葉で紡ぎ、震災と向き合い、懸命に闘い続けている人々へ「生きる力」をプレゼントすること。あなたの「生き方」が、誰かの「生きる力」へ繋がるような、鼓動の連鎖をもたらす記事をプレゼントしていきたいと思います。