白洲次郎という人物をご存知ですか?
戦後日本の復興に尽力した影の重要人物ですが最近はテレビ等で取り上げられることも増えてきたように思います。
今回はそんな白洲次郎が残した名言をご紹介します。
特に白洲次郎のことをこれまで知らなかった方に興味を持っていただけると幸いです。
(出典:http://matome.naver.jp/odai/2137810916135607401)
白洲次郎は1902年兵庫県芦屋市生まれの官僚、実業家です。
裕福な家庭で生まれ育った白洲次郎ですが、少年時代にはかなりの悪ガキで地元・神戸で暴れまわっていました。名門・神戸一中に入学するも成績はあまり良くなかったそうです。
しかし、その後中学を卒業するとすぐにイギリスに渡航しケンブリッジ大学に留学しています。
そのまま一生をイギリスで過ごすかに思えた白洲ですが、父の経営していた会社の倒産を機に帰国。その後、彼は実業界・政界に関わっていくこととなります。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki)
戦後日本において、GHQに対しても主張すべきところは強固に主張していた白洲のことを「従順ならざる唯一の日本人」とGHQの某要人は形容したと言われています。
またサンフランシスコ講和会議で、当時の首相・吉田茂が英語でスピーチを行おうとしていたところ白洲は日本語でのスピーチをするように変更させたというエピソードも残っています。
「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki)
その他官僚、実業家として様々なエピソード、実績を誇る白洲次郎に関して興味を持たれた方は以下の書籍を読まれることをオススメします。
プリンシプルのない日本
(出典:http://matome.naver.jp/odai/2137810916135607401)
白洲次郎の残した名言のうち幾つかをご紹介します。
出る杭は打たれるという日本の風習を嫌っていたのでしょう。現代日本でも、個性をつぶすような教育がしばしば問題となっていますね。
東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へのアドバイスとしてこの言葉を送っています。
プリンシプルという言葉は白洲次郎の代名詞的言葉となっています。
GHQの最高司令官、マッカーサー宛に昭和天皇がクリスマスのプレゼントを贈った際「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたことに激怒して放った言葉。マッカーサーをさえも慌てさせるほど、間違ったことには毅然とした態度を示した白洲次郎に関する有名なエピソードです。
(一方、このエピソードの真偽に関しては意見が分かれてもいます。)
(出典:http://plaza.rakuten.co.jp/sarumaji/9023/)
苦難の時代を乗り越えてきた白洲次郎ならではの言葉ではないでしょうか。
戦後日本が国際的地位を早くに取り戻すことができたのは、白洲次郎のようなプリンシプルを持ち自らの主張を通せる人物がいたからこそでしょう。
現代の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。やらない理由を探すよりやる目的を見つける人だったのでしょう。
(出典:http://mbp-osaka.com/golfmanners/column/23851/)
いかがでしょうか?
今回は戦後の影の立役者、白洲次郎の名言に関して見てきました。
今回の記事を読んで少しでも白洲次郎や戦後日本の歴史に興味を持たれた方はぜひ詳しい資料等を読んでみてください。