高校2年生で国連本部で軍縮スピーチをし、現在はオピニオンサイト「iRONNA」の特別編集長を務めるなど、大学生ながら論客として名を馳せる山本みずきさん。社会に声をあげることを臆さない彼女の原動力とは何なのか。
――高校2年生という若さでの国連軍縮スピーチや、現在ではiRONNA特別編集長を務めるなど、山本さんはとても活動的ですよね。その背景には、学校教育による影響があるのですか?
山本さん:まず高校時代までの私は、まったく型にはまらなかったんですよ。学校の勉強よりも、新聞を読んだり、政治に関する本を読んだりすることが好きだったから集中力が持たなかったんです。例えば、きちんと座って最後まで授業を受けるということが出来ないこともあったし……ここでは語れないくらい、かなり自由奔放な行動を取ってきました(笑)。試験も、受けたい科目しか受けずに凄まじい成績をとったこともありましたね。だから学校教育に影響を受けたというよりは、「私は誰について行けばいいんだ」みたいな独走状態でした。
こんな勝手な行動をとっていた私に、やっぱり周囲の友人たちは嫌気がさしたと思いますし、今振り返るとクラスの秩序を崩壊してきたことに対して全力で謝罪したいですが、きっと私は「人から嫌われること」に無頓着なんですよね。それ以上に、自分の時間を大切にするという姿勢を大切にしたかった。その姿勢を完全には否定しないでくれたという意味では、学校教育の影響もあると思います。もちろん叱られることは多かったですが、それだけ真剣に向き合ってくれる先生方の存在は偉大だったと思いますし、同時に興味を深めることを後押ししてくれたのも母校でしたので。
――大学が学びの場というよりも、モラトリアム期間と捉えられている現状がありますよね。大学という場をどう活かすべきだと思いますか。
山本さん:そもそもの話ですが、私は高校3年生になるまで大学に行くつもりがありませんでした。その理由の一つとして、受験競争の学校教育の中にいて、学力という一つのベクトルでしか自分の能力が測られない環境で、競争し合い、なかには優秀な友達を妬むような子もいる……。「本質的な勉強ってなんなんだろう」って思っていたんです。受験を乗り越えなければいけないのは理解できましたが、そんな環境で勉強するのが嫌で嫌で仕方がなくて、「同じことが続くなら大学に行かなくてもいいかな」なんて思っていました。
そんな矢先、たまたま3年生の時のクラスメイトに慶應を志望している子がいて、慶應の先生の講演会に一緒に来てくれないかと言うから、ついて行ったんです。そうしたら、その先生に「大学はどうするの?」って話しかけられて、「いや、私は考えてないです」「どうして?」「意味が無いと思う」というやりとりをしたんですよ。すると先生は「じゃあ意味が無いと思うならそれはそれでいいけど、とりあえず大学に行ってみて、実際に意味が無いと思った時点でやめなさい。じゃないと、本当に意味があったらもったいないでしょ」と。結果的に今は、大学に入って良かったなと思いますね。
同時に、実際モラトリアムと呼ばれるような大学に入ってみて、「大学の意義って何なんだろう」というのはすごく感じています。ある時、尊敬している教授から、大学生のうちにすべきことを二つ教えていただいたんですけどね。「大学生のうちは良い恋愛と、良い学問ができたらいいんだよ」って。私も含めて、どちらか一つに偏っている人は多いかもしれません。たくさん勉強しても人間的に成長できないことだってあるし、たくさん遊んで人間としての魅力が高まっても、頭のなかがスッカラカンだったら笑い物ですもんね(笑)。
――文系の学問は、突き詰めれば突き詰めるほど、社会に出てから役に立たないという意見がありますが。
山本さん:役に立たないと言っている人は、今までやってきた勉強の本質を理解していないんじゃないですか。というのも、文系科目の内容で、例えば私は政治学をやっていて、文学も好きですけど、文系の学問に共通しているは、ものごとの本質を見極めることじゃないかなと思うんですね。ものだけじゃなくて、出会う人それぞれの、人間の本質を見抜く力もそうです。それが備わっている人と備わっていない人には大きな差がある。その力が、社会をどう生きていけば良いかとか、そういう知恵や知性につながっていると思いますけどね。様々な局面で良い判断をくだせるようになるための、いわばトレーニングって感じですかね。
――最近のメディアの傾向として、極端な意見が横行していますよね。そんな中、若者読者は、自分の意見がメディアに毒されたものなのか、それとも自分本来の思想なのかの境界が見えなくなってきていると思うんです。メディアリテラシーを身に着ける必要があるのに、教わる機会がない。そこで、山本さんはどう身に着けたのか、教えてください。
山本さん:自分の体験ですかね。さんざん右翼よばわりされたから(笑)、自分の思想が極端だってことを、けっこう早い段階で認識しました。自分の中にある過激な部分や、飛躍した考え方をいかに矯正するか、大学一年生の頃から真剣に問い続けていました。メディアの言葉の胡散臭さにはかなり敏感になりましたね。
私は大学に入って、あんまり時事問題を追わなかったんですよ。3週間前までテレビもなかったし。そういう流動的な情報よりも、古典を読んだり、歴史の知識を身につけることを通して、物事を判断する価値基準を養うように毎日の生活を送っています。そこで得た知識や価値観があると、新聞を読んだときに、どこがおかしいとか、どういう思想に基づいているとか、やっぱり自然と見えてくるんじゃないかな。思考力とか発想力も大切かもしれませんけど、知識はその点で、奥行きの深さにつながりますよね。
――思ってはいても行動に移せない人が多くいる中で、山本さんが「おかしい」と思ったことをスピーチなどのかたちに表現できたのはなぜなのでしょうか?
山本さん:私が昔から大切にしているのは、何か機会をいただいた時にそれに見合うだけの力を発揮できるように常日頃から努力することです。具体的な目標を持ってそこに向かっていくだけではなくて、何かを頼まれた時に、それを相手の期待するレベルでこなすためには様々な引き出しが必要です。その都度一から準備するのはではなくて、向こうの期待以上のものを出せるように常日頃から努力しておくのが前提にありますね。それが関係しているのかは謎ですが、私が講演や文章で想いを表現できるのは、機会を与えていただいているからです。
――高校生のうちからご自身の意見を社会に向けて発信されていますよね。若ければ若いほど、今後自分の考えが変わるリスクがある中で、大学生であるご自身がメディアで発信する意味は何だとお考えですか?
山本さん:まず、リスクがあるのは本当で、もしこの記事を読んでいる方で、高校生の方などがいれば、安易な意見の発信は控えたほうがいいと思います(笑)。せめて偽名を使うとか(笑)。私はもう逃げられない環境に追い込まれたから振り切るしかなかったんですけど、正直なところ後悔している部分もありますよ。でもその上で言葉を発する意味なんですけど、慶應のモットーでもある、「ペンは剣よりも強し」という言葉があるじゃないですか。武力よりも、表現された思想のほうが強い影響力を持つ。私はその言葉にすごく共感しているんです。言葉が持つ力は、無限だと思うんですよね。それは、例えば政治的な問題を論じるに際しての文章もありますけど、それ以上に、表現された、人の思想の深さをうかがわせる文章の影響力は物凄いと思っています。
現実世界では絶対に体験できないような瞬間が、書かれた文字の中にはある。言葉の世界には、そうした体験がある。私としてはそういうものを発信してみたいんですよね。あまりにも人間や社会が歪んで見えるときがあるんですけど、それを少しでも良くしたい。歪んだ世界じゃない、善の世界を見てほしい。社会や人間を癒したい。そこに言葉を発信する意味を見出しています。現実世界では、妬みとか僻みとか恨みとか、そういう醜いものが蔓延していると思います。でもその一方で、言葉の世界には安らぎがあると思ってて。そういう安らぎを言葉の世界に求めています。
――最後に、山本さんを突き動かす原動力は何なのでしょうか?
山本さん:「この国をより良い方向に導きたい」という思いでしょうね。そのために自分にできることをやりたい。その可能性を増やすために私はいま勉強しています。いまは手段を模索している段階で、実現できていることの一例が、文章を書くことなんだと思います。大学って、自分の強みを探してそれを最大限に引き延ばすことのできる場でもあると思うので、自分の本領を発揮できる場を引き続き模索していきたいです。