オーストラリアの首都・キャンベラの存在。アボリジニの歴史・文化が集まる街。

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G’Day皆さん!ディーキン大学へ留学中の早川るいです。

今、ディーキンではテスト期間に入りましたが、私の場合テストが無い科目を取ったため、最終課題を提出し、休み期間に入りました。つまり、私のディーキンでの大学生活がようやく終わりました。

1年間の留学とお伝えしてきましたが、私の大学とディーキンとの提携条件により、トライメスター2(2学期目)までしか学ぶことが出来ません。

あとは帰国まで待つだけですが、ここからは旅行をしたいと思います。ただ単に旅行をするだけではつまらないので、この8か月間にディーキンで学んだ科目を旅行から通してもっと学び、多くの事を深く知っていきたいと思います。

最初の旅行先は、政治中心の首都キャンベラです。今回の記事は、キャンベラでさらに学んだ事について書きたいと思います。

行政・研究機関の中心地「キャンベラ」

キャンベラは、オーストラリアの首都です。場所は、NSW(ニューサウスウエールズ)に位置しておりますが、独立した行政区域になっているため、キャンベラは「オーストラリア首都特別区(ACT)」として存在しております。

キャンベラは、最高裁、国会議事堂、造幣局などの行政機関や国立博物館、国立美術館などの研究機関が中心地にあります。そのため、一つ一つの情報がどの州よりも詳しく、膨大な情報量があります。例えば、アボリジニ全般についての情報を知りたい場合は、博物館や美術館がおすすめですし、国会議事堂でもアボリジニに関する法案や政府が大きく関わった資料などを見る事が出来ます。

また、オーストラリア政治の中心地であるため、現在も多くの問題や対応がここキャンベラにある国会議事堂で取り組まれております。ちょうど、私が国会議事堂へ訪れた際、クエスチョン・タイムという日本で言う国会中継があり、生で見る事が出来ました。その時は、電話の受信料や大手スーパーの土日時の雇用について話されておりました。

ちなみに、なぜキャンベラが首都になったのかはご存知でしょうか?

元々は、シドニーかメルボルンのどちらかが首都になる予定でした。しかし、2つの都市が首都にしたいという意向が強かったため、中々決まりません。その時、政府の中でキャンベラに新しい首都を立ち上げる話が入り、連邦政府により選定されました。そして、1913年にキャンベラが首都として設立されたのです。

また、キャンベラが首都になる前はアボリジニの土地でもあったのです。キャンベラ(Canberra)という名前はアボリジニの言葉に訳しますと「集合場所(Meeting Place)」です。ヨーロッパ航海者がオーストラリアへ来る遥か昔、キャンベラという場所はアナウォール族(Ngunnawal people)というアボリジニの部族が暮らしていました。19世紀に入り、ヨーロッパ入植者がシドニー経由でキャンベラを植民地化した事で、一部のアナウォール族と争いごとになり、その結果、以前に比べて人数が激減したのです。

そして、植民地化で広まった病原菌、当時のニューサウスウェールズ政府からの別の土地へ移す命令、白人とアボリジニのハーフが入植地に認められた事により、アナウォール族という存在自体が滅びました。現在は、タイドビンビーラ自然保護区(Tidbinbilla Natural Reserves)へ行きますとアナウォール族のアボリジニ・アート、文化、暮らしぶりなどを見る事が出来ます。ちなみに、ある考古学者によりますと彼らは約2万1千年前から暮らしていたという事が分かっています。それほどアナウォール族にとって、キャンベラは自分達の家であったのです。

つまり、今のキャンベラは、オーストラリア行政の中心地であり、オーストラリア有数の研究機関が揃っている街であり、アボリジニの歴史に囲まれた街でもあります。

戦争記念館が伝える「歴史の大切さ」の意味

オーストラリアが今まで関わった戦争に関する中心地「戦争記念館」へ行って来ました。戦争記念館は、メルボルンにあるShrine of Remembranceより後に作られ(1927年)、1941年に建物自体が完成されました。

戦争記念館の本来の目的は、第1次大戦に亡くなったオーストラリア兵に対して追悼するための場所でしたが、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで亡くなったオーストラリア兵の追悼する場所や多くの兵士から寄付された写真、記録、遺品などを保管する場所になったのです。そのため、戦争記念館はオーストラリア軍事史に関する資料を保存する機関として、一番ズバ抜けております。

この戦争記念館は、2つ役割があります。

1つ目は、追悼する場です。まず、戦争記念館へ入りますと、追悼ホールへつながる”Hall of Memory”が目の当たりします。左右には、第1次世界大戦~イラク戦争で亡くなった兵士が書かれた銘板”Roll of Honour”があり、そこを通りますと、追悼ホールへ入る事が出来ます。ここでは、Unknown Soldier(名のない兵士)というお墓があり、これまでの戦争で亡くなったオーストラリア兵士達を象徴として存在しております。

しかし実は、第1次世界大戦に亡くなったあるオーストラリア兵士のために作られたお墓であります。きっかけは、1920年11月11日に名の無いイギリス兵士がフランスから持ち運ばれ、イギリスへ返された時の事です。同じ年、ある名の無いオーストラリア兵を持ち帰り、称えようと、フランスの墓場から掘り起こそうとしましたが、それが実現できませんでした。

しかし、1993年にようやくオーストラリアへ返されました。この時、第1次世界大戦の終戦75周年を記念して、同年11月11日に遺体を特注の棺に入れ、現在の場所に眠っております。そのため、この兵士の棺の上に”AN UNKOWN AUSTRALIAN SOLDIER KILLED IN THE WAR OF 1914-1918(1914~1918年に亡くなったある名の無いオーストラリア兵士)”と刻んでおります。

2つ目は、オーストラリアが体験したこれまでの膨大な資料が展示している事です。この戦争記念館では、第1次世界大戦からイラク戦争までの資料が溢れた場所なため、色々な出来事をオーストラリアにある戦争記念館の数個の中よりも多く学べ、知ることが出来ます。

特に、この戦争記念館が力入れているのは、第1次・第2次世界大戦についての展示ですね。この二つの出来事は、オーストラリア歴史の中で一番関わった戦争であり、一番悲劇の数が多い戦争でもあるため、若い世代に細々知ってもらいたいのです。8月15日にメルボルンにあるShrine of Remembranceの資料館へ行き、日本に関する多くの展示品を見てきましたが、キャンベラの戦争記念館はその倍以上あります。

メルボルンですと、日本軍の脅威やパプアニューギニアやソロモン諸島での内戦などについてあげておりましたが、キャンベラは大日本帝国軍の脅威からPOW(戦争捕虜)まで、これまで日本軍が第2次大戦中に起こした出来事を細々詳しく展示しております。これらを知るのは非常に興味深い事ですが、日本人である私としてはこの出来事とはまったく関係ないのに、心のどこかでこれらの出来事について知らなかった事に羞恥心や悲愴感を感じました。Shrine of Remembranceへ行った時も同じように感じましたが、展示品を見ているうちに心臓が締め付けられるような感じがしました。それほどこれらの展示品が当時の日本軍の恐ろしさを教えてくれたのです。

この時の経験を踏まえ、今、日本の歴史を若い世代に教える許容範囲について考えさせてくれました。これはあくまでも私の考えでありますので、これからお書きする事は1つの考えとして読んで下さい。

私達より若い世代は、現在も日本史や世界史について学んでおります。しかし、私達が学ぶ歴史には「学ぶ範囲」があります。今までの経験を通してみると、大学受験のために日本史や世界史を学んでいるように見えますが、実際にそれで良いかを一時考えさせてくれました。なぜなら、歴史も世界へ活躍する上、色々な人達を知っていく上に非常に必要な知識ではないかと思ったからです。歴史は国と国の交流関係を示す重要な土台を持っているため、自分の国がどういう風に世界と携わったのかが分かる事が出来ます。

しかし、日本の学校ではそこまでは学ぶ事が出来ません。あったとしても、中国、韓国、アメリカ、スペイン、ポルトガル、オランダが日本の歴史の中で大きな役割を果たしていたと思います。しかし、他の国々はどうでしょうか?オーストラリアの場合、戦争や真珠採取で多くの日本人が関わっております。オーストラリアの資料館や博物館では彼らの歴史は生き続きますが、国内ではごく数人のしか知らない為、若い日本人はそれらの歴史を知らず、国内では死んでいくと思います。これらの歴史を日本史や世界史の教科書の中に押し込むには難しいとは思いますが、彼らのやってきた事を多くの人々へ知るには教育から通す事が大切だと思います。

アボリジニに関する文化と自由運動の中心地

キャンベラでは、アボリジニに関する文化から社会情勢までの事が沢山あります。

キャンベラは研究機関が他の所より詳しいため、アボリジニに関する歴史、文化、生活などが博物館や美術館で見る事が出来ます。オーストラリア国立博物館では6割の展示品がアボリジニに関する資料があり、オーストラリア国立美術館では多くの観光客やオーストラリア人にアボリジナル・アートを紹介するために美術館の2階に展示しております。また、キャンベラのタイドビンビーラ自然保護区ではアナウォール族という絶滅したアボリジニの部族が暮らしていた土地でもあったため、そこでは壁絵などを見る事が出来ます。

文化だけでなく、キャンベラはアボリジニの社会的状況についても知ることもできます。この写真に写っている場所はご存知でしょうか?

ここは旧国会議事堂に真ん前にある「エンバシー・テント」です。エンバシー・テントは、1972年にアボリジニの権利や土地問題などを多くの人々に関心を持たせる為に建てられた所です。1988年に旧国会議事堂が現在の議事堂へ移った時、オーストラリア連邦議会の判断により、ACT内の新たな地方自治体として認定されました。これにより、エンバシーからのアボリジニが議員として出席するようになったのです。

また、1995年にオーストラリア遺産委員会がエンバシー・テントを”Australian Heritage Commission’s National Estate”としても認定されました。これらの事を認定されながらも、現在に至るまで何者かよる襲撃によって、エンバシーは被害を受けております。特に酷かった襲撃は、2003年による放火事件で、31年間溜めてきた資料が火事と共に消えてしまいました。しかし、今もこの場所にエンバシーがあるため、現在でもここに暮らしているアボリジニは自由を求め、戦っております。

アボリジニの権利や土地問題などがきっかけでエンバシー・テントが出来ましたが、少し前を掘り返しますと、1960年代にアメリカで起こったアフリカ系アメリカ人公民権運動があり、それがアボリジニの自由権を求める運動のきっかけとなったのです。アフリカ系アメリカ人による公民権運動が全世界に渡るマイノリティー達に勇気を与え、そこにアボリジニ達が立ちあがったのです。

その中で、運動のきっかけの一つがStolen Generationです。

19世紀後半から1970年代初頭にかけ、オーストラリア政府による白人の血を引くアボリジニの子供を家族から強制的に切り離し、西洋化教育を教えていました。これらの子供たちの世代を「Stolen Generation(盗まれた世代)」といい、政府が彼らを白人社会の言葉や習慣を身に付けさせ、西洋文化を刷り込ませようとしたのです。

なぜ、こういう事が起こったのかと言いますと、政府がアボリジニの存在を消そうとしたのです。アボリジニ内での仕来りでは、伝統文化、ドリームタイム(神話)などはすべて親から子供へと受け継がれるのです。この時、政府が考えていたのは、この仕来りを断ち切るには子供が幼い時に親から切り離すことです。また、政府がもう一つ考えていたのは、アボリジニの血を薄める事です。白人とアボリジニのハーフが白人と交際し、子供が出来る事で、アボリジニの血を薄めていき、肌を段々と白くさせていくのを考えたいようです。この計画が終わった以降、警察や政府関係の組織による謝罪が行いましたが、当原因の政府は謝罪を行いませんでした。しかし、2008年にケビン・ラッド首相が議会でアボリジニに対してこの事についての謝罪をしたのです。この謝罪は、Sorry Speechとして有名になり、現国会議事堂に原稿が展示しております。

この影響により、Sorry weekやNAIDO weekというアボリジニに関する週ができ、多くのオーストラリア人(特に若い世代)に彼らの存在を気付いてもらうようにしているのです。

現在でも土地問題についての話し合いが続いており、政府とアボリジニとの完全な和解はまだ少し先の事です。

以上です。皆さん、いかがだったでしょうか?

キャンベラは観光を強めていない都市ですが、オーストラリアの歴史、文化、社会情勢について学ぶ都市としてはとっておきの場所なので、ぜひ寄ってみていただくと嬉しいです。

次回は、ダーウィンについて2テーマに分け、書きますので、楽しみにして下さい。

では!

この記事を書いた学生ライター

Rui Hayakawa
Rui Hayakawa
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「The Long but short journey」の記事を書いている国際教養大学3年生のるいです。これから1年間、「自分の知らないオーストラリア文化を探求し、人々を知る」という広く深い目標で皆さんにDeakin大学での生活やオーストラリアでの旅について紹介していきたいと思います。

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