みなさんこんにちは! 神戸市外国語大学英米学科3年の森口雄太です。
現在私は、ブルンジでの日程をすべて終了し、日本に帰国しています。
さて、今日は「ジェノサイド」について書こうと思います。
普通に生きていれば知ることのない事実ですが、みなさんにも知っていただきたく、投稿します。
皆さんは、「アフリカのジェノサイド」と聞いて、何を思い浮かべますか?
多くの方は1994年にルワンダで起こったジェノサイドを思い浮かべると思います。
この虐殺では、100日間で80万人もの人が亡くなった(諸説あります)と言われています。多数派のフツ族が、少数派のツチ族とフツ族の穏健派を大量に虐殺した、民族対立による虐殺です(これも様々な見解があります)。
ー 今は美しいルワンダの町
ルワンダの虐殺は世界中に知られています。 「ホテルルワンダ」という映画を観て、この虐殺を知った方も多いのではないでしょうか。「虐殺を忘れない」ということで、現在ルワンダには、たくさんの虐殺に関する祈念館があり、毎年多くの外国人がルワンダを訪れ、虐殺祈念館に足を運びます。
しかし、ブルンジでも同じ民族対立の虐殺があったことをご存知の方は、どれほどいるでしょうか。 おそらくほとんどの方がこの虐殺を知らないと思います。ブルンジの虐殺は、ルワンダの大虐殺よりも前に起こりました。それも一回だけではありません。数回にわたり、たくさんの人が殺されました。
ー ブルンジの人口の半分以上を、15歳以下の子どもが占めています
一般に知られているのは、1972年と1993年に起こった虐殺です。
1972年の虐殺では、わずか3か月の間に、20万人と言われる人が犠牲になりました。この虐殺は、多数派のフツが少数派のツチを殺したと言われているルワンダの虐殺とは違い、少数派のツチが多数派のフツを虐殺しました。結果、大量のフツ難民が生まれ、彼らが国外で武装ゲリラを組織し、その後の長期にわたる武力闘争の原因になります。
1993年の虐殺と、そこから10年以上続く紛争では、30万人もの民間人が犠牲になったと言われています。それだけではありません。ルワンダの虐殺より規模は小さいながらも、何度も虐殺が繰り返されてきたのです。
わかるでしょうか。ブルンジの虐殺はルワンダの虐殺よりも前に起こりながら、国際社会から忘れ去られているのです。
ブルンジにはルワンダのように祈念館がなく、小さなモニュメントがいくつかあるだけです。ガイドは存在せず、その場所で何が起こったのかを知ることは、簡単ではありません。私が現地の友人と訪れたモニュメントを一つずつたどりながら、ブルンジで起こった虐殺についてお伝えします。
1993年の6月、初めて民主的な選挙で選ばれたフツ族の大統領(ンダダイエ氏)が、そのわずか4か月後の10月21日にツチ族によって暗殺されました。これを機に、ブルンジで10年以上続く紛争が始まります。そして同日、ブルンジのギテガ県で、報復としてフツ族がツチ族を殺す虐殺が起こりました。大統領の死は虐殺の始まりであると同時に、それ自体も虐殺だったと、現地の友人は語ります。
ー PLUS JAMAIS CA!(英語でNEVER AGAIN,二度と繰り返さないの意)
この日、少数派のツチの高校生たちがこの場所に集められ、生きたまま火をかけられ、惨殺されました。
ー この場所でも、同じように子どもたちが生きたまま火をかけられました
亡くなった子どもの正確な数はわからないそうです。 しかし、残虐な方法で、しかも罪なき子どもがたくさん殺されました。この場所にガイドはおらず、現地の友人がここで何が起こったか、淡々と説明してくれました。
私の友人は1990年に生まれ、この紛争を子どもの頃に体験しました。彼は7歳の時に自分の町に戦闘機が飛んできて、市民が虐殺されるのを見たそうです。その後一年間隣国のコンゴ民主共和国(旧ザイール)に難民として逃れ、今は国境近くの町に住んでいます。
更に、この紛争から身を守るために自ら武器を持って兵士として戦い、タンザニアに難民として逃れ、7年間そこで暮らし、1年間投獄され、ブルンジに戻ってきたという壮絶な過去を持つ友人もいます。当時のタンザニアの難民キャンプの状況は過酷なもので、キャンプの外に出ることはほとんど許されなかったそうです。友人はキャンプから外に出ようとして投獄されました。子ども兵として戦わざるを得なかった友人もおり、紛争の傷跡は今でも垣間見られます。
惨劇が起こったのは、首都のブジュンブラ市内にあるGatumbaという町です。この町は隣国のコンゴ民主共和国と一番近い町で、国境に接しています。
2004年、この町の難民キャンプが武装勢力に襲撃され、罪なき166人の人々の命が奪われました。コンゴ人のみを狙った、極めて残虐な殺戮でした。英語ではGenocideよりも、Massacreという単語が相当する殺戮です。そのお墓が虐殺のモニュメントとして、この町にひっそりとたたずんでいます。
別の虐殺が、同じGatumbaの町でありました。2009年9月18日、Gatumbaの中心にあるバーが夜に武装勢力に襲われ、40名を超える人が亡くなりました。このバーには入口が一つしかなく、逃げようとした人々は、バーの外から狙い撃ちされました。
ー 事件があったバー。イメージを払しょくするために、今は教会になっています
この虐殺があったバーの正面に住んでいた友人が、当時の様子を語ってくれました。
「俺はあの日、教会から家に帰る途中だった。19:30頃だったと思う。家まであと100メートルというところで、銃声と悲鳴が聞こえた。その日は家に帰れず、まる2日、他の場所に隠れていた。あの事件があった後、政府から何度も電話があり、何が起こったのか聞かれたよ。武装勢力は30人くらいだった。あまりに突然のことだったから、軍隊も警察もおらず、犯人は一人も捕まっていない。彼らは兵士の代わりに、市民を撃った。老若男女、子どもからお年寄りまで、たくさんの人が殺された。俺の親戚やご近所さんも、9人亡くなった。あれは俺の人生の中で、一番つらい経験だったよ。」
彼は淡々と語ってくれました。 まるで過去の話のように語ってくれましたが、内心では今もどれほど怒りや憎しみを持っているか、計り知れません。ブルンジの人々は、あまり本音を表に出しません。 だからこそ、彼らの行き場のない怒りや憎しみは、とめどなく胸の中で渦巻いていると思います。その思いを押し殺しながら生きている彼らの胸中は、これもまた計り知れません。彼はこうも付け加えました。
「Gatumbaに住んでいる人々は、常に恐怖とともに生きている。この町は2つの川に挟まれており、橋はそれぞれ1つずつしかない。片方はコンゴ(DRC)に通じているが、パスポートがなければ通れない。南はタンガニーカ湖がある。何かあった時には、逃げ場がないんだよ。ここの警備は厳しい。じゃあどうしてこんなことが何度も起こるんだ?」
Gatumbaは他の町とは違い、空気が緊迫しています。首都のブジュンブラの中にありながら、検問はとても厳しいです。町中に銃を持ち、迷彩服を着た本物の兵士がたくさんおり、緊張感を漂わせています。先ほど紹介したモニュメントも、実は軍隊と警察官の庁舎の間にあります。ここを訪れた日は空がどんよりと曇っており、一層哀しい雰囲気が流れていました。
これらの惨劇の真相は、今もわかっていません。 しかし、警備が厳しいこの町に武装勢力が侵入し、しかも軍と警察の庁舎の間で銃を乱射して逃走するということが可能だったのは、Gatumbaの警察も軍もグルだった、というのが友人の意見です。お金をもらっていたから警察や軍は動かなかったのだ、と。さらに政治的な文脈が背景にあったと、友人は付け加えました。
ブルンジの政府は過去の虐殺を、虐殺と認めていません。 これがブルンジ国内にちゃんとした祈念館がない理由の一つだと思います。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉が思い出されます。さらに、ブルンジの虐殺が複雑なのは、フツがツチを虐殺しただけではなく、ツチもフツを虐殺したというところにあります。昔はフツとツチで、住む場所が分けられていました。学校でも、フツとツチの子どもは分けられており、フツの子どもたちが学校に通えない時期もあったそうです。
更に、ブルンジの虐殺はルワンダの虐殺と違い、市民同士が殺しあったというよりも、軍や政府が市民を殺していったという認識が強いです。1972年の虐殺で父親を殺された私の友人は、「俺の父親は政府に殺された」と言っていました。市民同士の殺し合いもありましたが、虐殺は政府が先導しました。 また、虐殺から自分たちの身を守るために、たくさんの子ども兵や、難民が生まれました。ブルンジの子ども兵は他の国と違って、ほとんどが自発的に兵士になったと言います。その理由としては、武器を取って戦わざるを得なかったという一面があると思います。
今のブルンジの若い人たちは、あまりフツ族とツチ族という風に民族を区別しません。 それをするのは何人かの年寄りだけだそうです。しかし、虐殺が過去のものになってしまい、なかったことになれば、ブルンジの人々は虐殺から何かを学んだと言えるのでしょうか。虐殺の祈念館を作ることで、人々が胸の内に秘めている、行き場のない憎しみや悲しみ、怒りを少しでも和らげることができると、私の友人は言います。いつまでも憎しみや怒りが人々の心の中でくすぶっていると、また過ちを繰り返すことになりかねないと思います。
「ルワンダの人々は過去から学び、未来を見て今を生きています。あんな辛いことがあって、いつまでも後ろを見ていたら、前に進めません。明るい未来を見ているから、前に進むことができます。批判をしていても、何も始まりません。批判をするくらいなら、どうしたらその相手と仲良くなれるか、どうしたらその相手を赦すことができるか、考えるべきだと思います。」
これはルワンダの虐殺と、東日本大震災という二つの悲劇を経験した方の言葉です。この言葉は、もちろんルワンダやブルンジ、同時に現在の日本へのメッセージでもあると、私は思っています。赦すということはとても難しいことですが、赦さなければ前を向けないような時もあります。これは私たちも教訓として、心に留めておくべきなのではないかと思います。
ブルンジの人々は、赦す心を持っています。虐殺で兄弟を亡くした私の友人は、彼の兄弟を殺した相手を赦したと言います。それがブルンジの文化だと、彼は付け加えました。私にはとても信じられませんが、過去の辛い経験を赦し、明るい未来を見て、今を必死に生きている彼らからは、生きる力を感じました。赦すことが、平和への一歩なのだと思います。
残念ながら、ブルンジには平和がまだ訪れていません。次の大統領選挙でも、不測の事態が起こることが懸念され、暴力を恐れて隣国のルワンダ、タンザニア、コンゴ民主共和国に脱出する人も増えています。選挙の結果次第では、紛争になるということも予想されており、緊張が高まっています。選挙は6月から始まります。
そして、今の対立は民族対立ではなく、政治的なイデオロギーの対立です。これを勘違いしないでほしいです。
ー 選挙が終わり、情勢が落ち着くまではブルンジに行かないでください
残念ながら、日本の英語学習で、ブルンジのジェノサイドが取り上げられることはありません。 ルワンダのジェノサイドでさえ、私は大学に入学してから知りました。こんなに大切なことなのに、学校では学ぶことができません。英語を話せるようになることは、英語学習の手段であり、目的ではないと私は思っています。英語を学ぶことの真の意義は、狭い視野を拡げ、多様な価値観に触れることだと私は考えます。
ならば、英語を理解し、自ら世界の問題にアンテナを立て、調べ、学び、視野を拡げていくことこそが、英語学習の必要条件だと私は信じています。ブルンジの日本語情報はとても少ないです。英語ですら情報は少ないですが、海外の主要メディアが書いている記事などを見るだけでも、ブルンジを知ることができます。ですので、学生の皆様には是非英語を活用し、ブルンジのことを調べ、視野を拡げてほしいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。この虐殺についてたくさんの方に知っていただきたいので、もしよろしければFacebookやtwitterなどで拡散していただけるとありがたいです。問題を問題化しましょう。よろしくお願いします。
神戸市外国語大学英米学科2年の森口雄太です。 大学で勉強する傍ら、ブルンジという国と日本をつなげる活動をしています。 アフリカから情報を発信していきます!