ボストン留学中、特に親しくなった人物の中にサウジアラビアからの留学生がいました。 彼は3ヶ月もの間、私のルームメイトであり、多くの時間を共にし様々な話で盛り上がったのですが、特に白熱した話題がありました。宗教観です。
私は多くの日本人と同じように、信仰に関して強いこだわりはありません。対して彼は敬虔なイスラム教徒です。 サウジアラビアでは、国民はみな生まれながらにしてムスリムで、他宗に改宗しようとすれば即座に首を打たれるそうです。
ある時、こんなことがありました。 私たちが街を歩いているとき、頭上を一羽のカラスが飛んでいきました。それを見て彼が、彼の信仰する宗教について驚くべき話をしてくれました。
イスラム教では、ヘビ・カラス・ネズミ・狂犬・トビの5種が、有害度において逸脱した動物であるとして「殺すことが奨励されている」というのです。
私は別に動物愛護主義者などではありませんが、これを聞いて彼との根本的な価値観の違いに愕然としました。夏に蚊に悩まされながら「蚊なんて絶滅してしまえ」と喚くのとは訳が違います。預言者の言葉として、きちんと明文化されているのです。 (有害な動物とはいえ)宗教が殺生を推奨しているというのは、日本で生まれ育ち日本的な価値観に基づいて生きている私には驚愕すべき事実でした。
イスラム教やキリスト教などの一神教と、日本古来の神道とは、自然に対する考え方が大きく異なります。
まず一神教から見ていきましょう。 一神教は、自然界を人間が征服すべき対象と見なします。 旧約聖書の冒頭・創世記は、神は6日間で世界を創造し、6日目に神に似せて人を作り、これに自然を管理・支配する役を与えたとしています。
1:26 神は言われた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
つまり、唯一神を信仰するイスラムやキリストの世界では、人は自然界と厳格に区別され、自然は人間に支配されるべきものと定義されているのです。一神教は砂漠の厳しい環境で生まれた宗教なので、「大自然は人間の力で克服し支配するものだ」という考え方が生まれたことは不思議ではありません。
これがヨーロッパをはじめ各地へ伝わり、土着のアニミズムやシャーマニズムなどの原始的信仰を駆逐しつつ広い地域に根付きました。
そして近代に入ると文明の進歩を促し、人類を今日の繁栄へと導きました。 人が大自然を管理し、人が自然の上位に位置するとする考えが、今日の物質的に豊かな現代社会を生んだのです。科学技術はますます発展し、しまいには創造主それ自体を否定するに至りました。なんとも皮肉な結果ですが、のんきに笑ってもいられません。
そうした一神教的な世界観では、人類の発展のために自然資源が搾取され、環境が破壊されても構いません。 人間の生活に影響が及ばない限り、自然界の悲鳴に耳を傾けることはありません。事実、キリスト教はヨーロッパに上陸するとともに、民衆の教化や農業生産性の向上のため森を伐採し始めました。
森は、原始的なアニミズムの民であるケルト人やゲルマン人が畏れ敬う神聖な場所であり、必要最低限の木材を切り出すことはあっても、大規模に開墾を行うことはありませんでした。
そこへ、11世紀頃にローマ人がキリスト教とともにやってきたのです。 そもそも、排他性と独善性の強い一神教はアニミズムと相容れる部分がありません。 アニミズムは、森や泉、獣を神聖なものと見なし、森を畏れ敬い、自然との調和の中で生きようと努めます。
一方、キリスト教を始めとする一神教にとって神は唯一無二であり、人と自然とは明確に区別されます。自然はあくまで神の創造物であり、神性が宿ることはありません。
ゆえに修道士側としては勢力拡大のために神々の住む森を切り開く必要がありました。
もちろん、人口増加や食料需要の高まりも開墾の理由としてあったのでしょうが、森を切り開くために必要な民衆の意識転換や農業技術は、キリスト教修道士によってもたらされたものでした。この「大開墾運動」が行われたわずか150年余りの間に、例えばフランスでは国土の森林面積の約40%が失われたと言います。
(出典:https://twitter.com/tenpurasoba4/status/553203561526358016)
数世紀を経て人間の生産活動はさらに活発になり、地球温暖化や森林破壊、異常気象など、人間の活動が地球に及ぼす影響はもはや無視できないレベルにまで達しました。環境破壊が進み、日々の生活が脅かされて初めて我々は自然界の悲鳴に耳を傾け始めたのです。
このまま好き勝手に破壊と搾取を繰り返せば、やがて大自然に手痛いしっぺ返しを食らう(いや、もう食らい始めている)。 とうの昔にアニミズムの民が感覚的に知っていたことを、我々現代人は現実的な恐怖感を持って今ようやく認識し始めたのです。
そんな中で、日本の宗教観・自然観が今世界から注目を集めつつあります。
2008年、ジェームズ・キャメロン監督のSF超大作『アバター』が大ヒットし興行収入記録を塗り替えましが、実はこの作品の世界観には日本古来の自然観が多く取り入れられています。宗教をめぐる争いが絶えず、環境破壊によって世界が危機に瀕している今、彼のように日本人の宗教への寛容性や、調和を重んずる独特の自然観が何に基づいているのか興味を持つ欧米の知識人が増えてきています。
日本には太古から神道というものが存在しました。 6世紀に仏教が伝来し神道は多少の翳りを見せたものの、本地垂迹説という絶妙な論理が生まれ、神仏が習合することによって神道は仏教的要素と融合する形で今日まで残りました。原始的な信仰が現代まで残り、しかもそれが独自の国土・言語・文化を持って1億人以上の人口を抱えているというのは世界でも日本だけです。
ラテンアメリカも古くは自然信仰の民が生きる地域でしたが、キリスト教の到来により、多くの土着の信仰はその言語や文化とともに滅びるか、奥地へ追いやられてしまいました。日本が極めて稀有な例であることがよく分かります。
では神道とは一体どのようなものなのでしょうか。
私たち日本人にとって非常に馴染みのあるものでありながら、それを本質的に理解している人は極めて少ないように思います。 無理もありません。司馬遼太郎をして、
「神道は発生形態も多様で、また思想的な発達史もあり、とても十枚の枚数で書けるものではなく、また書いたところで、煩瑣(はんさ)を避けて説明できる自信がない。神道の本質というのは、精霊崇拝(アニミズム)だろうか。それとも憑霊呪術(シャーマニズム)なのか、あるいは後世になって加わる現世利益的な受福除災の儀式なのかなどと考えると、どうもまとまらない。」(『この国のかたち』巻二 ポンペの神社)
と言わしめています。
いかに複雑で説明のつかないものであるかが分かりますが、それでも強いて簡単に述べようとすれば、
「大いなるものを畏れ、敬すること」
とでも言えましょうか。
「大いなるもの」には様々なものが含まれますが、その最たるものが、大自然です。
(出典:http://www.a-kimama.com/tozan/2013/05/8048/)
我々人間は特別な存在ではなく、大自然の一部に過ぎません。
私たち一人一人の命、生命を維持してゆくための山海の恵み。これらは全て大自然からの借り物であり、いずれ死とともに大自然に返さねばなりません。だからこそ、食前に「いただきます」と手を合わせ、命への感謝の気持ちを示すのです。こうした点は『アバター』の中で、狩った獲物の命に敬意を払い、自然界のエネルギーの流れに身を任せて生きる原住民の姿に投影されています。
一方で、個人の欲やエゴに駆られて自然を荒らしたり、必要以上に殺し搾取することは、恐れ多い行為として控えられてきました。大自然は、ときに我々に恵みを与え、ときに我々の命を脅かします。 生も死も、すべては大自然が握っていて、我々にはどうすることもできない。
ゆえに大自然に全てを委ね、畏れ敬い、調和を保つよう努める。
これが日本古来の宗教観・自然観です。
『アバター』の中では、自然への畏敬と調和の中に生きる原住民ナヴィの世界に、欲に駆られ資源を求めて”スカイ・ピープル(人間)”が土足で踏み込み、大自然の秩序を破壊しにかかりました。原住民たちは大自然の力を借りて人間を撃退し、秩序を取り戻します。ジェームズ・キャメロン監督は、一神教的な価値観から生まれた大量消費社会の行き着く未来を、スカイ・ピープルの敗北を通して暗示したかったのではないでしょうか。
また、その『アバター』に大きな影響を与えたと言われているのが、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』です。
『もののけ姫』では「シシ神」がそうした大自然の摂理を象徴する存在として描かれました。大自然は雄大で力強くもあり、同時に脆く崩れやすいものでもあります。作中では、シシ神は命を与えもし、奪いもします。エボシの放った銃弾(人間の破壊活動)によってシシ神の首が落ちる(自然界の調和が崩される)と、シシ神は死の神となってあらゆる生命を奪い去りました。『もののけ姫』は、人間の行動がいとも簡単に自然界の秩序を乱し、取り返しのつかない事態を引き起こし得るということを、エボシの銃弾とシシ神の暴走を通して象徴的に伝えようとしているのだと思います。
そしてアシタカがエボシに放った、
「森とタタラ場 双方生きる道はないのか?」
という台詞が現代に生きる我々に強烈なメッセージを突きつけています。
『風の谷のナウシカ』の主人公ナウシカもそうでしたが、主人公が人間サイドか自然サイドかのどちらかにつくのではなく、両者の間に立って共存の道を探ろうとするあたりがジブリ作品の味噌と言えましょうか。
なぜ日本でこうした独特の宗教観・自然観が生まれたのでしょうか。その答えは豊かな日本の自然環境にあります。
日本の寿司は今や世界中で人気を誇り、どこの国へ行っても寿司バーを見つけるのにさほど苦労しませんが、そこでまず驚くのはネタの少なさです。日本の寿司屋では10種、20種とネタが並ぶのが当たり前ですが、海外ではサーモンとエビしかない、なんてこともありました。
理由は色々とあるのでしょうが、そもそも日本ほど多くの種類の魚が捕れないから、というのが一番大きな理由ではないでしょうか。
日本の近海には、ぶつかり合う海流や山から川を伝って流入する豊富な栄養分によって世界有数の豊かな漁場が形成され、特に三陸沖は世界三大漁場のひとつに数えられています。
また日本は森林資源も豊富です。日本の国土の約67%は森林に覆われており、世界平均の29.6%を大きく上回ります。
このように豊かな自然環境の上に日本古来の神道は成り立っています。自然を大切にし、調和を保って共存することこそ、自然の恵みを得る確実な方法であったのです。
一神教も神道も、我々がより幸せな人生を送るためのものという点では共通しているでしょう。しかし、幸福を達成する過程で自然とどう付き合うかという点において、両者は大きく異なります。
語弊を恐れずに言えば、一神教では、自然はあくまで人類の幸せを演出するための道具であり、両者は明確に分けられています。世界(自然)の幸福は人類の幸福とは無関係で、幸福は人間自らの営みによって得られるものだと考えます。これが、良くも悪くも今日の”人類の"繁栄につながりました。
一方神道は、自然の秩序が保たれて初めて人類の幸福も実現するという考えが根底にあるように思います。大自然をないがしろにし調和を乱せば、大自然の一部である我々人類もいずれそのツケを払うことになります。人と自然とは不可分であり、世界(自然)の幸福の上に人類の幸福が成り立つのです。
こうした、大自然を畏れ敬い、四季折々の美しさを愛で、秩序を重んじる和の精神が我々日本人のDNAには刻み込まれています。また、そうした価値観の中で育まれた思いやり、助け合いの心は、2011年の大地震で被災された方々の気品と礼節あふれる姿を通して世界中に伝えられ、驚きと賞賛を集めました。
私は、日本的な価値・日本特有の自然観が、21世紀の世界が抱える諸問題を解決してゆく鍵となることを予感しています。
かつて江戸の町は100万の人口を抱え同時期のロンドンやパリを超える世界最大の都市でありながら、自然と調和する循環構造を持った高度なエコ都市でもありました。
2005年には、ケニアのノーベル平和賞受賞者・ワンガリ・マータイ氏により、「もったいない」という日本語が環境保全の合言葉として世界的に知られるようにもなりました。
また、これは平和維持活動に関心がある友人から聞いた話ですが、紛争解決の現場では、日本人だからこそ現地の人たちが協力的になってくれる、ということも多いのだそうです。
私は、日本という国の価値を正しく認識し世界に発信してゆくことがより良い世界を構築することにつながると信じていますし、そのようにして地球全体の福利に貢献することが、東洋に浮かぶ島国に生きる我々の使命であると思います。
そのためには、まず私たちはこの誇るべき母国のことをもっともっと知らなければなりません。グローバルな視野をもってローカルな視点に目を向け、日本という国を眺め直しその魅力を再発見してゆくことが、世界をより良い方向へ導く道標となることでしょう。
「英語教育を通してアンビシャスな人たちの夢を叶える力になりたい」という夢を実現するため、日本人に最適な語学教育のあり方を求め米国ボストンに留学。現在は日本に帰国し、語学教育事業に注力中。帰国後も執筆の機会を頂けたことに感謝しています。大阪大学4年生。