孫正義氏の学生時代〜ソフトバンク設立。

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今回は世界を股にかけて勝負している日本人の20代を振り返ろうと思います。

彼らが、学生時代に何を考え、どう行動したのか。 また偉大な方からの名言も一緒に紹介します。 まず第一回目は、”孫 正義"(57)氏です。

孫正義氏は言わずと知れたソフトバンクの社長です。

米・携帯通信会社スプリントの買収、世界初となる感情を理解するロボット"ペッパー"の発売など、世間を騒がし続けています。 そんな世界一有名な起業家の一人である、彼の大学生時代を今回はクローズアップしていきたいと思います。

1.坂本龍馬に憧れ、16才で高校中退

img_0彼は高校時代に4週間の語学研修旅行でアメリカに行き、そこでアメリカのスケールの大きさ、キャンパス内の自由な雰囲気に惹かれる。 その後、坂本龍馬の脱藩に憧れ、 「人生は短い。若いうちに行動しなければ、後悔する」 「人生は限られている。だからこそ、思い切り生きなくては」 という想いで日本の高校を半年で中退し、 サンフランシスコの英語学校に入学する。

2.カリフォルニア大学バークレー校に入学、猛勉強時代

tmb240_20110915151502-1大学時代の孫氏は、自分でも「世界で一番勉強した。間違いなく世界一勉強した」というくらい、勉強していた。

食事をするときも風呂に入るときも勉強した。 湯船につかっていても教科書から眼を離さない。 車を運転するときも勉強した。 テープに講義を録音し、ヘッドホンで聴く。 信号待ちになると、「時間がもったいない」と教科書を開く。 教科書をハンドルの上に乗せて、半分見ながら運転する。 信号が青になったら後ろからクラクションが鳴る。 孫は慌てて車を発進させる。 (出典:http://ameblo.jp/kigyou-idea/)

これが当時の孫氏の生活だ。


3.一日五分、一つの発明

tmb240_20110915151342-1孫氏は、勉強の鬼になる事を決意し、アメリカに渡ってきていたため、金儲けに目をくらませる事を良くない事だと考えていた。そこで考えついたのがあの有名な一日五分発明だ。

大学卒業後は日本に帰国する予定でいた孫氏だが、日本の企業に就職するつもりはさらさらなかった。事業を営んでいた父親の影響もあり、起業の意思を固めていたのだ。卒業後にスムーズに起業するには学生のうちに軍資金を貯めておかなければならないと考えた孫氏は、資金をどうやって作るか頭を悩ませた。ただ、普通の学生のようにハンバーガーショップなどでバイトする選択肢はなかった。学生としてしなければならない勉強もたくさんある中で、時間をかけた割にはたいした額は手にできないからだ。大学で猛勉強を続ける中で資金作りにかけられる時間を算出すると1日たった5分。「この5分を有効利用してできることは何か?」と頭を悩ませた。 そこで彼は自分なりに考え、一日に5分だけ、自分に勉強以外の時間を許そう。 という結論に至った。 一日に5分。 5分で金を稼ぐには、肉体労働や時給で金をもらう仕事をやっていてはダメだ。 どうすればいいか。 孫氏は考えに考えた結果、特許を取ろうと考えた。 一日5分発明して、特許を取ろう 毎日毎日、「アイデアバンク」と呼ばれるノートに発明を書き記していった。 そのアイデアの数は250以上。 「これを一年間やったおかげで、大きな自信につながった」 と孫氏は言う。 (出典:http://blog.codebook-10000.com/entry/20131216/1387153018)


4.シャープへ1億円で事業売却

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事業交渉はなかなか厳しいものだったが、彼の情熱に人は巻き込まれていく。

最終的に発案した250ものアイデアの中から選んだのが音声付き電子翻訳機。 海外旅行中に外国人と話す時に、電卓のように日本語で「駅マデノ行キ方を教エテクダサイ」 とキーボードで入力すると英語やフランス語に同時翻訳され、声になって出るという機械だ。 しかし決めたはいいものの、一人だけでプログラムを書き、設計していては卒業までに間に合わない。 そこで孫氏は校内から専門家たちを集めプロジェクトチームを結成することにした。 ノーベル賞受賞者を多数輩出する大学だけに優秀な研究者や言語学者には困らなかった。 コンピュータ学部の教授を中心に電話をかけまくり、熱心にリクルートした。 だがそのアイデアには興味をもった教授たちも「忙しいから」と断られてしまう。 それでも先方に報酬を支払うことで合意を取り付けた。もちろん手持ちの現金はなかったが、試作機ができた時点で日本の会社に売り込み、その契約金を成功報酬として支払うことで納得してもらった。 こうして一流の教授たちを口説き落とし、孫氏は自らの発明を商品化するための最強のチームを結成した。 孫氏はこれを連絡のとれたシャープに狙いを定め、大学の夏休みを利用して日本に帰国し、同社の担当部長と交渉を行った。 しかしその反応は予想以上にきびしいものだった。「作品としては面白いけど、実用化は難しい」と断られてしまったのだ。 せっかく米国からはるばる帰国してきたのに、手ぶらで帰ることはできない。教授たちへ報酬を支払い、何よりも自らの起業資金を作らなければならない。そこで、弁理士協会に電話を入れ、コンピュータ関連の特許に強い弁理士を紹介してもらえないかと依頼した。 そこで、紹介されたのが元シャープの電卓事業部の特許を担当をしていた弁理士だった。 その弁理士に電話を入れ、シャープのキーマンである専務を紹介してもらった。 電話を切ると、その場でシャープに電話を入れ、「あと3日でアメリカに帰らなくてはならない。明日にでも会ってもらいたい」と切り出し、面談を強引に取りつけた。 その佐々木専務は孫氏と会った時に、まずその若さに驚いた。そして次にプレゼンを受けた試作機に感心した。 「日本のソフト業界の将来のためにもこうした人材は貴重だ」という思いを持った専務は契約を決めてくれた。 こうして学生時代の発明により、後のソフトバンクを起業するための資金、1億数千万円を手にしたのだった。 (出典:http://news.livedoor.com/article/detail/4450701/)


5.ソフトバンク起業へ

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孫正義氏はこのとき、とりあえず2000万円を手にし、アメリカヘ引きあげ、プロジェクトメンバーに成功報酬を支払い、残った資金で、1979年にアメリカに「ユニソン・ワールド」という会社を設立した。 学生ビジネスマンとして日米間を往来するようになった孫正義氏は、日本のインベーダーゲーム機をアメリカに持ち込んだ。 その頃、日本ではインベーダーブームの火が消え、生産過剰の機械が倉庫に山積みされていた。 ブームの頃は1台1100万円もしたインベーダーゲーム機を5万円で20台を買い取り、アメリカへ空輸した。 飛行機での運送代は1台7万円だった。そのゲーム機を、収入折半を条件に、あちこちのレストランと交渉し、彼の粘りに負け、たいていは設置することに同意したという。そのようにして、日本から350台ものインベーダー機をアメリカに送り、半年間で1億円を超える儲けをあげたという。無から有を生じさせる孫正義氏の〝企業伝説〟の一つのエピソードである。いずれにしても、孫正義氏は学生ビジネスマンとして、翻訳機とインベーダー機で2億近い金を稼いだことになる。 1980年3月、カリフォルニア大学パークレー校を卒業した孫正義氏は、「ユニソン・ワールド」を同社の副社長に売却して日本に戻った 。故郷の福岡県にこもり、「始めたら、その事業以外のことには手を出さない」という決意のもと、何をすべきかを徹底的に考え抜いた。あれこれ情報収集をかさね、何百にものぼる事業アイディアの中から絞りに絞って、 1年半後の19816年9月に、コンピュータソフトの卸会社「日本ソフトバンク」を設立したのである。 1990年には「日本」を取り払って「ソフトバンク」に改名し、 生涯の仕事として「情報インフラのプロバイダー」を決意し、日本を飛び越して世界的な企業買収劇を演じているのである。

その後はみなさんご存知の通りである。 卒業後、日本に戻り、アルバイト2人と起業した際に「いずれは何兆円規模の会社にしてみせる」と宣言した孫氏。当時は周囲から呆れられた孫氏だが、学生時代の勢いそのままにブルドーザーのように道なき道を切り開いてきた結果、いまやソフトバンクグループは800社にまで成長している。


6.孫氏から若者へメッセージ

最後に講演会での孫氏の言葉を添えて終わりたいと思う。background

皆さんにこれだけは伝えたい。 志高く。坂本竜馬いわく、「世に生を得るは事を成すにあり。」人生一回きりしかないのだから、この時期に自分が登りたい山を決めてほしい。自分の人生を何に懸けたいのか自問してほしい。 「登りたい山を決める。これで人生の半分が決まる」目指すべき山を決めずに歩くのは、さまように等しい。 自分は何をもって事を成したいのか?その1 点だけは決めてほしい。 会社とは何か?会社とはカンパニーです。 パンを一緒に分け合う仲間という語源ですが、もっと大事なのは、志を共有する仲間だということです。 一人で登る山も素晴らしいが、一緒に登る山はさらに大きくて楽しい。

病床にいたときに、笑顔が見たいと思った。家族の笑顔が見たい。社員の笑顔も見たい。 お客様の笑顔も見たい。見ず知らずの遠い異国のどこかの少女が「ありがとう」と感謝してくれたらいいなと思った。 究極の自己満足は、エゴのための満足じゃなく、見ず知らずの遠くの人から、「ありがとう」と小さくつぶやいてもらうこと。 余命5年と言われ病床で泣きながら思った結論だった。 すべてはこの一つのために凝縮できます。「情報革命で人々を幸せに」 (出典:新卒LIVE 2012)


この記事を書いた学生ライター

Keiji Takahashi
Keiji Takahashi
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大学一年次よりスタートアップに興味を持ちアプリ開発/ベンチャーでのインターンシップを経験。 現在、学生の視野を広げるco-mediaとインターンシップから築く新しい就職の形InfrAを運営する株式会社Traimmuの代表。 サッカー観戦とジム通いが趣味。

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