“震災”は目に見えない傷を心に残し、
今なお、その傷と向き合いながら生きている人々がいます。
震災から生まれた”想い”を届け続ける大学生に、
当時の様子と彼女の「今」を語っていただきました。
「震災発生後の数日間は自暴自棄になっていたと思う・・・」
そう重々しく口を開いたのは、私と同じ宇都宮大学に通う岩手県山田町育ちの髙橋はるかさん(22)。
高校一年生であった当時、夢であったアメリカへの留学を三日後に控えていた彼女は、その研修へ参加するために宮古駅で田老行きの電車を待っていた。念願の夢が叶うと心を躍らせていた彼女に、突然、あの大きな揺れが襲った。
九死に一生を得た彼女は、着の身着のまま、一緒に渡米するはずだった同級生とその母の三人で農村の集会所へと避難。
「家は・・・。妹は・・・。お母さんは・・・。お父さんは・・・」
考えを巡らせれば巡らすほど、呼吸ができなくなり苦しむ自分に気づく。家族の安否も、山田町の被災状況も分からない中で、ただただ時間だけが過ぎていった。非情なまでに、ありあまる時間が彼女に想像の余地を与え続けた。
追い打ちをかけるように、死亡者名簿の情報が流れてくる。家族と一文字違いの名前が目につく度に、身体中に押し寄せる悪寒と吐き気にひたすら耐えなければならなかった。
渡米の夢が叶わないと悟った悔しさ、走馬灯の様に頭をめぐる家族との思い出…あらゆるものを失ってしまったかもしれないことを体もわかっているようだった。
壊滅的な状態の町で消防の人が運ぶ遺体を乗せた担架が横を通り過ぎたとき、ついに歩けなくなった。
「もう、無理だよ…」
自分が発した言葉に、自分自身で絶望を覚えた。
避難所に帰った後、他の避難者がいる中で一人で声をあげて泣いた。
「まだ若いあんたが泣いてたら私たちはどうしたら良いの!」と避難者の中の一人のおばあちゃんに怒られてもなお、溢れてくる涙を止めることはできなかった。
孤立していた避難所であったため、避難してから三日後にやっと消防の助けが来たという。焦る想いに駆られるまま山田町へ戻り、ひとまず農村部にある祖母の家へ向かうと、そこには、彼女が幼い頃から共に過ごしてきたおばけのぬいぐるみを抱きしめながら、泣き崩れていた母の姿があった。家族と再会するまでの不安と恐怖に心身ともに疲労し、何度も独りで泣いていた彼女は、母と妹に再会できたとき、無意識に「笑顔」になっていたという。このとき、やっと“自暴自棄”から解放された。再会できたことへの喜びとともに、家族の前では笑顔でいようという震災前からの彼女の生き方があった。
両親の離婚を経験し、先天性の難病による肢体不自由の妹に寄り添ってきた彼女は、父の役目を果たして家族に安心感を与えられるように、日々、「笑顔」でいることを心がけてきた。それは、想像をはるかに超えるこの苦しみの中でも、貫いた一つの想いであった。
彼女の家が津波の最終到達地点だった。幸いにも家は1m程の浸水で済んだが、玄関や窓には津波によって流されてきた無数の被災財がのめり込んでいた。
「この家には、特別な想いが詰まっている」と彼女は言う。
当時、妹の中学入学を控えていたが、自宅から通うにはあまりにも遠すぎて悩んでいたところに、家賃の急激な高騰という二重の問題に直面したとき、
「オラどうの持ち家二つともちょうど空いでるっけぇに、好ぎなぁほう選べえ!」と
偶然にも中学校の近くに持ち家があった親戚のおじちゃんとおばちゃんが貸してくれたのだ。そして、肢体不自由の妹が安心して暮らせるようにと、内緒でリフォームし、手すりなどもつけてくれた。優しさが詰まった家なのだ。
そんな気さくで心優しいおじちゃんとおばちゃんは、
「どうだー!新しい家はー?」と嬉しそうに様子を伺いに遊びに来ていたそう。
別れ際には「がんばれよ~、はるか!!」とまるで娘のように声援をおくってくれた。
地元には、小さい頃から何度もおつかいに行った思い入れのあるお店もあり、
そこに勤めるおじちゃんは10年来、彼女の成長を見守り続けてきた。
震災発生の数週間前のある日、家族で買い物に出かけたとき、ふとお店のおじちゃんが言った。
「お母さん、はるかちゃんのこと見てみろ。この子は何があっても大丈夫。目を見れば分かる。心配すんでね。」
唐突なこの言葉に、彼女は照れ臭く、ただ呆然と首を縦に振るしかなかった。
「失ってからしか、思い出せなかった」
津波によって跡形もなくなった親戚のおじちゃんとおばちゃんの家の前で、凍える寒さのなか缶コーヒーを置いて、「ありがとう。ありがとう。」と必死に、涙を流しながら何度も何度も手を合わせ続けた。けれど、もう会うことはできない。10年来の付き合いだったお店のおじちゃんにさえ、お礼の気持ちを直接伝えられなかった。
「なんであの時、“ありがとう”って伝えられなかったんだろう・・・」
たくさんの人に支えられてここまで生きてきたのに、頂いてきた「温かさ」に見合うような振る舞いをしてこなかった自分を責める。
「皮肉にも、幼い頃、初めて覚えた言葉が“ありがとう”だったのに・・・」
震災で山田町の街並みや大切な人々を失った深い悲しみとともに、この感情が彼女を苦しめた。
震災後は二週間も経たないうちに自宅へ戻り、掃除や片づけをしていた。夜になると辺りは真っ暗で、異様な臭いが立ち込む。ローソクに火を灯しても、悶々と永遠の闇に落ちていく。
「何かしていないと、脳裏に死んだ人の顔が浮かび上がる」
そんなとき、役場に行けばボランティアの活動ができると耳にした彼女は、馴染み深い役場へ向かう。道中には花束と缶コーヒーが供えられ、今までの山田町の風景はそこにはなかった。役場の建物は見えているのに、被災財が積みあがった街並みの中を歩けど歩けど、道に迷ってしまう。それでも歩みを止めず、一歩ずつ前に進んだ。
なんとか役場に辿り着き、全国各地から届いた支援物資の仕分け作業のお手伝いをした。しかし、役場では住民と役場の人々が言い合いをする声が周囲に響き渡る。
「なんで長靴のサイズが無いんだ!!!」と怒鳴り散らす男性。
そんな些細な事でさえも、人の心が暴走してしまう状況だった。
そんなとき、彼女は怯えながらも、そっと声をかけてみた。
「おじさん、お店みたいにサイズが無くてごめんなさい。これはね、少しでも足しになるようにって、全国各地の人が想いを込めて送ってくださったものなの。一回り大きいサイズの長靴持ってきてみたけど、どうかな・・・?」
怒りに包まれていたおじさんの肩の力がゆっくりと抜けいく。
「そうだよなぁ。ごめんな、怒って。お前も生きてて良かったなぁ!」
「がんばれよっ!」
泥だらけのおじさんが優しげな表情でそう答えた。
“今しかない”
「ありがとうございますっ!!」
心からやっと“ありがとう”を伝えられた瞬間だった。いちばん後悔していたことを、“今ならできるぞ!”とチャンスをくれたのかもしれない。そう彼女は呟いた。
それから彼女は、「ありがとう」を伝えられる人でありたいと誓い、それが今を生きる源となっている。
それから彼女は語り部をはじめ、地域に密着した活動を続けてきた。
地元の山田町を離れ宇都宮大学へ進学後、はじめて外から地元を見たとき、
「“心”がどうなっているかまでは届いていないんだなぁ」と実感したそう。それは、地震や津波、火災による物理的な被災状況や自然災害の恐ろしさは届いていても、そこに生きる人々の“心”は伝わっていないということ意味している。
「どうしようもないことだけどね」
少しだけ寂しそうな彼女の言葉が、私の心の奥深くに突き刺さった。
「震災から5年と8カ月」
毎月11日の月命日を迎えるたびに、この表現に触れる。この言葉は、“心の震災はまだ終わっていない”という真実を覆い隠してしまう。彼女のなかでも日々、震災は続いている。
「月日が経てば、客観的に“東日本大震災”と向き合うことができるようになるかもしれないと思っていた。けれど、アルバムのように、触れたいときにその思い出を取り出せるほど、第三者にはなれなかった。日常の中で、突然、あの記憶が蘇ることがある」とそう語る。
いつも、彼女と共に生きる“出来事”。
そんな彼女に、これまで震災とともに生きてきた自分へ何と声をかけたいですかとそっと尋ねてみた。
「何があっても人生だよ。それでも生きていける。」
幾重にも渡って“死”を覚悟してきた彼女だからこそ、紡ぎだせる言葉だった。
「震災は人生のなかの辛い出来事の一つ。これからもっと辛いことがあるさ。」と凛と前を見据える。
そんな風に過去を振り返る彼女から、未来へ歩む自分自身へメッセージを紡ぎ出してもらった。
「命は永遠では無いけれど、その命は永遠に私のもの。何があっても人生。」
苦しくも、震災が教えてくれた“ありがとう”の重みを心に刻み、生きていく。
“今”この瞬間を生きるあなたへ。
大切な人に最後に“ありがとう”を伝えたのはいつですか?
福島県泉崎村出身。宇都宮大学国際学部4年。東日本大震災後、「言葉」を通して変わるきっかけを頂いた私が次に出来ること。それは、震災後に出会った多彩な「生き方」を言葉で紡ぎ、震災と向き合い、懸命に闘い続けている人々へ「生きる力」をプレゼントすること。あなたの「生き方」が、誰かの「生きる力」へ繋がるような、鼓動の連鎖をもたらす記事をプレゼントしていきたいと思います。