大学で、メディアで、就職活動で、近年耳にタコができるくらい聞く“グローバル人材”という言葉。皆さんはどんな言葉を思い浮かべますか?留学経験のある人?帰国子女?実はそれだけじゃありません。
そもそも、グローバル化の波から取り残されている島国日本で、考えられているグローバル人材って、世界で求められているグローバル人材とちょっとした乖離があるのかもしれません…
それなら、こんな時は世界情勢を読むプロに聞いてみましょう!
ということで本日は、以前の単独インタビューの続編としまして、元外務省事務次官・薮中三十二氏と、同氏が主催するグローバル寺子屋・薮中塾の塾生4人をお迎えして、グローバル人材とは何か、そしてグローバル人材になるためには具体的に何をすべきか、という熱~い議論を対談形式でお送りいたします!
板倉:さて、本題に入る前に、そもそも今なぜグローバル人材が求められているか、という背景について先生にお伺いしたいと思いますが、先生どうでしょうか。
薮中:そうですね、日本人がもし従来までのように日本の国の中だけで生きていけるならとてもハッピーですが、グローバル化した現代では、どのビジネスであっても外国との付き合いが重要となってきます。一般的な企業で7割、少ない企業でも3割が外国との取引ですから、今まで日本国内だけで完結してきた企業もそうはいかなくなってくるわけです。
例えば、コスト削減のために外国に工場を建てるなど、否が応にも外国との付き合いが必要となってきています。好む好まざるに関わらず、社会がグローバル化を必要としてきました。それでも、一般の日本人にとっては、外国と付き合うのは面倒ですよね。その面倒くささを乗り越えられるのがグローバル人材だと思います。
板倉:なるほど。
薮中:今はもう死語ですが、日本企業や官公庁で自慢気に言われた言葉があるんですよ。「私は“超ドメ”ですから。」という言葉です。「外国とのことなんて私には関係ないです。」という意味なんですけど、どういう文脈で言っていると思いますか?
板倉:うーん…今で言う“純ジャパ”ですかね?「私は生まれてこのかた日本を出たことがありませんけど。」って自分を卑下する言い方ですが。
薮中:いえ、逆にこれは、優越感をもって言っている言葉なんですよ。当時は日本国内だけで多くの事業が完結していたので、国内事業を任される人は組織において中心的役割を求められているということだったんです。だから「私は“超ドメ”ですから。」といいますと、「外国とのことはアホなやつにやらしておけばいい。」という意味なんですね。
板倉:へぇ~なんだかジェネレーションギャップを感じますね。
薮中:他にも「英語屋」という言葉があって、「あれは英語屋にやらしておけばいい。」という使い方をします。つまり、当時は大蔵省からしたら外務省は英語屋ってわけですよ。ただ、外務省の中で“超ドメ”といったら、ものすごいアホになってしまいますから、外務省ではそんな言葉はありませんでしたが。
一同:(笑)
薮中:国際部っていうのは、昔はどんな企業でも別に地位の高い部署ではなかったんですよ。それが今や、国際的な付き合いを社員全員がやらなければならない時代となっている。だから日本企業にとっては、グローバル化というのは大きな変化で、国内だけで十分仕事ができるだけのマーケットがあった時代から、外国を相手に商売をしないと潰れてしまう時代への変化でもあります。そういうわけで、日本社会全体にグローバル化という必然性が生まれ、それに伴いグローバル人材の必要性が叫ばれる時代になったわけです。
板倉:なるほど。しかし、現状の日本では、“実際じゃあグローバル人材って何?”っていう問いに対する企業の答えが的外れなまま、学生が間違った方向性に行ってしまっているように感じますね。
薮中:そうなんです、グローバル化で何が求められているかという問いかけはあるのですが、しかしそれに対する企業の答えは極めて日本的なんですよ。それこそ、「さぁ、みんなでTOEIC700点取りましょう」とかね(笑)それがグローバル化に対応するための第一歩だと真剣に思っている。極めて島国的発想ですね。
つまり、グローバル人材の必要が十分認識されていても、実際にどんな人材が必要か、というのが答えになっていないわけなんです。
板倉:ではここからは塾生の皆さんに聞いていきたいと思うのですが、まず最初に堤さん!グローバル人材ってなんだと思います?
堤:そもそも、日本の雑誌やメディアで描かれている「グローバル人材」は、誰のためのグローバル人材かという点で二種類に分けられると思います。二種類とは、世界が求めるグローバル人材と、日本が求めるグローバル人材で、しかし個人的には、それらが混同して用いられてしまっている印象があります。日本が求めるグローバル人材というのは、日本のため、もっと言えば日本政府や日系企業の視点で見たもので、自社の製品を世界で、他国の競合に負けずに売っ てくるだけの能力・意思を備えた人のことを指しているように思います。ただ、こういう人材を、私たちは「本物のグローバル人材」と呼んでも良いのかな?、 と。
そうではなくて、私の考えるグローバル人材は、日本企業や日本だけではなくて、世界から求められる人材です。具体的にいうと、今国内外でどんな問題が起きていて、そこでは何が人の幸せの阻害要因になっていて、それをどうやって解決していくのかを真剣に考えられる人。そして考えるだけではなく、その問題に対して、自ら積極的に関わって、実際的な価値を生み出していく人だと思います。だから、グローバル化によって日本の環境が変わったから、私たちがグローバル人材にならなければならないのではないと思います。
板倉:なるほど、ではそういった世界規模の問題解決に取り組める人間になるために、大切なことって何だと思いますか?
堤:一言でいうと、原体験ですね。グローバル人材って定義は色々ですけど、大事なのは「なんでグローバル人材にならなきゃいけないのか」っていう根本の部分だと思うんです。例えば日本で一生生きていく、日本人としか関わらないっていうんだったら、別にグローバル人材になる必要なんてそもそもないんですよ。そうじゃなくて、グローバル規模で行動を起こしたい、起こさなければならないと自分自身をそう駆り立てる原体験や志があるはずで。そのコアな部分が、グローバル人材を目指す上で重要なのかなと思います。
板倉:堤さん自身、何か原体験になるようなことがあったんですか?
堤:そうですね、私にとっての原体験はインドでのインターンシップ経験でした。インドで一年間過ごす中で、“女性だから”不自由を感じることも多くあって。例えば行きたいところ、やりたいことがあっても、いろんな危険を心配しなければならない。「もっと自分の好奇心を追求したい。」と思っても、それができないもどかしさを感じました。こういった経験を通して、女性や子どもなどの社会的弱者が、夜でも安全に動けるような社会が世界中に広がっていくべきだという考えを持つに至りました。
板倉:でも、原体験って得たい!と思って簡単に得られるものじゃないですよね?
堤:そうですね、ある意味「運」かも。だからこそ、学生時代は行動範囲を広げて、色々な世界に飛び込み、色々な人と関わるべきだと思います。私自身も、あの時思い切ってインドに行ってみなければ、「世の中に男女間の不平等がある」という事実は頭でしか理解できませんでした。実際に現実を目の当たりにして、自分自身も女性として不平等・不自由を実体験として経験して初めて、世界で起きている問題を自分ごととして捉えることができる。そしてそんな原体験により“世界規模の課題解決に携わりたい”という強い志を得た人こそが、グローバル人材なんだと思います。
板倉:なるほど、堤さんらしい熱い意見、本当にありがとうございます。
板倉:グローバル人材とは、世界規模の課題解決を目指す人材であるというお話でしたが、竹中さんはグローバル人材とは何だと思いますか?
竹中:根本的な話になるんですが、“グローバル人材になる”って、目標とするのはいいと思うんですが、それ自体を目的化してはいけないと思います。なぜなら、そもそもグローバル人材になるために、何か特別なものを身につけなければならないわけではないはずだからです。ただ、従来から一貫して必要とされてきたもののうち、世界中の人と関わっていかなければならないグローバル時代において、特に意識的に強化されなければならないものがいくつかあると思います。例えばそのうちの一つは、孫子の有名な格言である「彼を知り、己を知る。」という言葉に集約されていると思います。
板倉:「彼を知り、己を知る。」ですか・・・ちょっと具体的に説明おねがいします(笑)
竹中:そもそも、なぜ日本において「グローバル人材が必要だ」とこれほど叫ばれているのでしょうか。こんなに叫ばれている国は日本くらいで、そう叫ばれていること自体、日本社会の閉塞性を表していると思うんです。というのも、日本は島国であるという地理的な特徴によって、古来から異なる文化的背景を持つ人々と関わる機会が希薄でした。私は専門がインドなんですが、インドはものすごく多様な国で、例えばインド全体で公用語だけでも30、少数言語まで細かく数え上げると2000言語あるんですよ。インドにおいては民族間で互いに侵略が繰り返されており、それに伴い情報の流通が行われてきました。こう考えると、インドのような大陸の国においては“グローバル化”っていうのは新しい傾向でもなんでもなく、昔から当たり前のように存在したものなんです。
薮中:確かに、日本ほどグローバル化が叫ばれている国はなかなか無いよね。例えば日本には“外国”、外の国という言葉がありますが、ヨーロッパでは外の国との付き合いなんて当たり前のことで、そう考えると、日本ほど外との付き合いを特別視する国は少ない。
竹中:そうなんです。でも日本においては、インドやヨーロッパで当たり前に存在した外国との関わりが昔から少なかったため、大衆レベルまでに浸透した現代の“グローバル化”は新しい傾向として捉えられ、特別視すらされています。こういった特殊な背景を持つ日本人にとって、自分達と異なる文化的背景を持つ人々と対話する機会を持つことは新しい挑戦なんだと思います。そしてこの新しい挑戦に際して、必要とされるのは異質なモノを異質だと排他的になることなく受け入れられる力。そして、異なる文化的背景を持つ相手にも、自分を発信できる力です。更に、そうした“対話”のためには、相手のことも、そして自分のことも知らなければならない。それを集約したのが「彼を知り、己を知る。」という言葉だと思っています。
板倉:なるほど。では「彼を知り、己を知る」ために、具体的に実践していることがあれば教えてください。
竹中:歴史や文化、宗教の違いを理解すること、そしてそれを効果的に実践できるのが文学だと思います。文学とはそもそも、自分が知らない世界を教えてくれるものであり、かつ、地域の特徴を反映したものだとおもいます。そして文学とは、例えば技術などとは違い、優劣が付けられる相対的なものではなく、それぞれの個性が重要視される固有の絶対的価値を持ったものです。現在のグローバル社会っていうのは、もはや先進国だけを相手にする時代ではありません。今までは物質面で遅れていると言われてきた、発展途上国含め世界の様々な国々の人々と対話する機会が増えてくると思います。
そして、発展途上国でもどの国でも存在するものが文学だと思います。例えばアジア最貧国のバングラデシュは、アジアで最初のノーベル文学賞をとったタゴールの母国で、ゆえにバングラ人は自国の文学に大きな誇りがあります。更に、こうやって相手が誇りにしているものについて理解を深めて、彼らが知ってほしいなと思っていることを知ろうとするということも重要です。グローバル化時代って言っても、結局、対話するのは人と人ですから。
小川:確かに、本を読むことは遠回りに見えることですが、文学には時代が象徴されていますよね。その時代の人々がどのような思考プロセスをたどって、どのような行動を起こしたかよく理解できますし。
薮中:そういえば文学と言うと、イギリスの外務省の人たちは本当に教養のある人たちで、彼らは何から勉強するのかというと、必ず哲学か歴史なんですね。大学で哲学か歴史を専攻して、そのあとロースクールに行ったんだという人が驚くほど多い。
板倉:へぇ~。学部と院で違うことを勉強するのって、日本だったら“ちょっとレールから外れている人”と受け取られてしまいますよね。
薮中:そうだね、でも彼らは、シェイクスピアや聖書を読むのは当たり前、歴史や哲学は必ずやっているし、そういう伝統になっているんですよ。法律っていうのは実用でしょ。
堤:実用ってことはツールってことですよね。
薮中:そう。実用的なことを学ぶ前に自分の教養。それが彼らの伝統で、日本の場合はそうじゃないから難しいのですが。G7なんかの会議に出てくる人たちもそうやって教養を身につけた人たちばっかりですから、日本側としてもそれにどうやって負けないようにするか、というのはありましたね。そしてこれらの教養は、自分が何か仕事をする時に、明らかに影響があると思います。
板倉:なるほど、日本人ももしかしたらそういった文学的・哲学的な教養が必要なのかもしれませんね。自分を知るという部分にもつながってきますが、竹中さんどうですか?
竹中:そうですね、日本人が自分を知るという意味においては、やはり源氏物語などの古典文学を読むことが有効だと思います。よく、“日本人は無宗教だ”って言う人が多いけれど、世界の人々からすれば、“無宗教”っていうのは思想の根幹を成す部分が無いという意味で、マイナスイメージで捉えられてしまうこともあります。確かに日本の中にも何か信仰されている方もたくさんいますが、アニミズムのような日本古来の思想は体系化されていないだけで古典文学など身の回りにあるものの中に存在していると思います。だから“私、無宗教なんです”と言うのではなく、古典など日本人の根幹を成す思想が込められた文学に触れて、しっかり日本を世界に向けて発信する力をつけることも重要ですね。
堤:それに、文学・哲学・歴史って、結局今その国で根強く残っている社会制度や問題に大きく影響している部分がありますよね。「彼を知り、己を知る」際に、表層的な部分に囚われず、我々自身や相対する他者の根幹を成す思想を理解していく上で役立つと思います。
小川:役立つという表現は実はおかしくて、逆説的ですけど役に立つものはすぐに役に立たなくなるものなんですよ。これだけ時代の流れが速いと、今役立つものなんて数年後には何の役にも立たなくなる。
堤:だから古典読むんじゃん!
小川:そう、だからです!例えば英語にしても、自動翻訳ができたら役に立たなくなりますよね。英語はツールであって根本ではないというのはそういうことです。でも、時代がいくら流れようと、一番根本の変わらない部分ってあると思います。表面的な変化や新しいトレンドなんて、ある程度優秀であればいつでもキャッチアップできます。じゃあ何が根本で、どこを探すべきなのか、というと、答えはやはり文学や哲学だと思います。だいたい今の世の中で人間が悩んでいることなど、本質的に考えれば3000年前からずっと考えていることなんです。学生時代にインドへ行くのもけっこうですが、まずは地味ではあってももっと根本的なところを勉強するべきだと思いますね。
板倉:なるほど。前半の議論も含めてまとめると、現地に飛び込んで自分の目でいろんなものをみて原体験を得るのと、歴史や文学など根本的なモノについての地道な勉強と、両輪でバランス良く行っていくことが重要ですね。
~後半へ続く~
イギリスのダラム大学で平和構築の修士課程修了後、パレスチナで活動するNGOでインターンをしています。”フツーな私が国連職員になるために。ギャップイヤー編”連載中。 Twitter@Misato04943248<⁄a>