アフリカはセネガルからお送りいたします。池邉です。 最近は村人と一緒に農業をしています。調査の一環としてですが、慣れない作業にヘトヘトです。
私はセネガルのイスラームについて調査をしています。イスラームというと、世間を騒がすイメージが強いでしょうが、もちろんそれだけじゃありません。色んな要素を持っており、国ごと地域ごと、宗派ごと、人によってもさまざまです。
アフリカというとはじめはピンとこないかもしれませんが、ムスリム(イスラーム教徒)の人口はかなり多いです。セネガルは94%がムスリムです。
では、なぜ宗教に興味を持ったのか。アフリカはよく「遅れている」、「教育が行き届いていない」、「貧困」とされています。私は学部時代に途上国開発を学ぶゼミにいましたが、そうした「貧困」や「教育」という言葉が必ずしも現地の人々の生活を表していないのではないか、と考えていました。
実際、“貧しい”とされている中で、彼らがどのように生活しているのかをイメージすることは難しいです。彼らの生活のうち宗教的な側面を見ることで何かわかるのではと考え、セネガルを対象にムスリム(イスラーム教徒)を研究することにしました。
宗教から捉えると、彼らの生活は面白いくらい理解できます。
例えば、挨拶はアラビア語の「サラーマレイクム」を使います。他にもインシャーラー(神の望むままに)、ビスミラー(神の御名において)などアラビア語の言葉は日常に多く出てきます。何か驚いたときには「ラーイラーハイッラッラー(神は唯一なり)」と言います。「オーマイゴッド」みたいなもんですかね。アラビア語を理解する人も多く、看板にも使われています。
数百年も前からセネガルに入ってきており、人々の生活に深く浸透しています。(礼拝日の金曜日、モスクに人が集まります。その時間だけはスピーカーから祈りの声が響くのみ、とても静かです)
彼らの生活にはイスラームが欠かせません。ただ、私はその言葉だけで理解をとどめてしまうのはもったいないな、と感じます。
日本人の感覚では、宗教というと「なんだか頭がソッチの方向にいってしまった人たち」と敬遠してしまいます。事実こちらに住んでいても「ハァ?そんなわけねえだろ」と思うことも多々ありますが、それでも、信じているひとたちにとっては常識です。
「貧しい」とは何を指すのでしょうか。たとえば、「教育」という観点から見てみましょう。
アフリカはよく「教育が行き届いていない」と言われますが、果たしてそうでしょうか。セネガルを含め、多くのイスラーム地域には教育の「場」として「コーラン(クルアーン)学校」があり、都市でも村でも、子どもたちが聖典コーランの教育を受けています。勉強をする、ということはつまり、イスラームの勉強を指すことがあります。(コーラン学校の一例。木の板にアラビア語を書き写し、暗唱します)
小学校・中学校の普通教育課程をドロップアウトしてしまうことは多々あります。もともとの能力、親の収入、労働力として確保するためなどの理由が伴い、「教育」を抜けてしまいますが、コーラン学校という場に行き着く子どもも多くいます。
私の調査相手にひとり、そういった子ども時代を経験した青年がいます。彼は親の収入が少ないため退学せざるを得ませんでした。ですが、その後はコーラン学校に通いながら生活し、いまではその学校の経営を担う存在です。独学で英語とフランス語を勉強する熱心な若者で、いまは私にしつこいくらい「日本語を教えろ」というくらいです。彼のようなパターンは多く、ドロップアウトしたとしても、その後勉強もできず仕事もできないというわけではありません。
では「食事」という観点で見てみましょう。
テレビを通して、「アフリカの、いまにも餓死しそうな子ども」のような写真を見ることはありますが、広すぎる範囲の上、なかなか極端な例です。セネガルではどの家庭も、ご飯が余るくらいの量が出てきます。お金がない家でも、量はとんでもないです。余ったご飯はどこにいくのか。
私の調査している別のグループは、家をまわって、余ったご飯を分けるよう頼んでまわります。ある種「乞食」的行為ですが、人々は彼らに分け与えます。そうした余り物がまわるシステムが自然とできているのです。なぜそういった「乞食」的行為をするのか、グループと与えた人どちらにも聞いたところ、「与えることも神(アッラー)への祈りだ」とのこと。(セネガル料理として有名な米料理チェブジェン。余り物なので、固くて、冷えています。やっぱり温かいほうがおいしいです)
二つの例を挙げましたが、イスラームを介して、人々の生活が成り立っているということがわかります。単純に「貧しいアフリカ」と見るよりも、どのように生活をしているかを見ないことには、理解は進みません。
日本に育った皆さんは、宗教についてあまり意識をしないでしょう。もちろん私もそうです。
日本人は神道と仏教が混じり合った中で生活しています。キリスト教もふんわりと影響を受けていますよね。その中で感覚として残っている部分はいくつかあります。それを頭では理解できても、なんとなく「宗教」と聞くと身構えてしまう人が多いと思います。
異文化理解とはよく言いますが、理解するには、ひとつかふたつ「とっかかり」となるものが必要です。「歴史」や「食事」、「音楽」、はたまたその土地の人たちが持つ「性格」もそうです。
私は「宗教」もそのとっかかりになりうると考えます。単に「貧困」なのではなく、「貧困の中でどうやって生きているのか」、「その貧困を助けているものは誰か」という観点から見ると、セネガルの宗教的相互扶助を見つけることができました。
異文化理解において、宗教はとても面白い判断材料になります。
それでは、今回はこの辺で。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科アフリカ地域研究専攻の、池邉智基です。アフリカはセネガルで文化人類学の調査をしています。 Facebook: https://www.facebook.com/IkebeTomoki